『らき☆すた』に見るChanging same。


 『らき☆すた』について、id:Shsgsさんから反論が返ってきたので、答えてみる。

らき☆すたのよさを説明したものとして「女子高生の"日常"だからよい」あるいは「オタクな女子高生の"日常"だからよい」といったものがみうけられました。実は、kaien様ご指摘の部分については「日常」という言葉に比重を置いて言及をしていただきたかったということがあります。すなわち、わたくしは「女子高生の"日常"だからよい」という主張は肯定できないよと答え、かといって「オタクな女子高生の"日常"だからよい」といったように「オタク」という単語をつけたからといって肯定できるものでもないよとわたくしは主張するわけであります。

 なるほど。ちょっとずれたやり取りになっているかもしれませんね。修正するよう努力しましょう。

 もう一度確認しておくと、この「日常」という言葉について、id:Shsgsさんはこのように書いておられます。

らき☆すたが"女子高生の日常"を描いたものであるという言い方をするのは虚偽である。なぜなら"オタクでない女子高生"が日常的にネトゲとかギャルゲーなどと話すということはないからである。

これに対しては次のような反論があるかもしれない。いわく、らき☆すたは"オタクな女子高生の日常"を描いた作品なのだ、と。だが、このような言い方をするのも適当でない。

らき☆すたという作品は確かにオタクに観られることを前提としている。それは作品内に数多あるパロディや前提知識を必要とする内容の存在からわかることである。しかし、ともすればそのことはオタク以外の視聴者を蚊帳の外においてしまう結果を導く。いやしくも、らき☆すたという作品は(深夜とはいえ)テレビというメディア媒体で放送されているのであるから、その点をおろそかにせず考慮に入れねばならない。つまり、「らき☆すたを観ようかな。どうしようかな」と思案している、らき☆すた愛好者の"周辺部にいる人々"に対して、いかに作品が語りかけていけるかという問題である。オタクの存在だけを前提するオタクだけわかるという作品であれば、テレビなどという開かれたメディアではなく、ある程度隔離のなされているOVAあたりで勝手にやってくださいといえてしまうからである。

 この文章をぼくなりにまとめるとこういうことになります。

 第一に、『らき☆すた』を女子高生の日常を描いた作品と評価することは適当ではない。なぜなら、日常的にネトゲやギャルゲのことを話題にする女子高生は存在しないからである。

 第二に、仮に『らき☆すた』を「オタクな女子高生」の日常を描いた作品で考えるとしても、それはオタク以外の視聴者を拒絶する結果を生んでいる。テレビという場でこのような一般人に対して閉ざされた作品を放送することは良くない。

 このうちの「オタク以外の視聴者を拒絶している」という箇所について、ぼくはこのように反論しました。

 そうはいっても、そもそも作中のパロディネタをすべて瞬時にわかるような意味での「オタク」は、全視聴者のなかでは少数派のはずである。

 それにもかかわらずこの作品が人気を得ている以上、この作品にはそういう「オタク」以外も魅了する力があると考えるべきであり、決してそのような狭い意味での「オタク」以外に対し閉ざされているとはいえない。

 しかし、ぼくも『らき☆すた』が辞書的な意味での「女子高生の日常」を描く作品だとは思いません。

 この作品でも、たとえば授業の場面などはほとんどがカットされている。そういう意味では、やはりこの作品も「非日常的」な時空間を描いています。

 ここで考えなければならないのは、「日常」とは何か、ということです。いや、むしろその言葉を使うひとが、「日常」という言葉であらわそうとしているのは何かということでしょう。

 たしかに、『らき☆すた』は辞書的な意味で「日常」を描いている作品ではない。そのことは認めた上で、しかし「日常」という言葉であらわしたくなるような何かがあるということを考えるべきなのではないでしょうか。

 そこで思い浮かぶのは、伊藤剛さん(id:goito-mineral)がここで書いている次のような文章です。

一般に「ストーリー性」優位の考え方に立つと、次に来がちなのが「単に慰撫するようなマンガはよくない」「願望充足的なマンガはよくない」という考え方です。おそらくその背後にあるのは、ある種の素朴な文学観でしょう。かつて桑原武夫が文学の機能は「人生へのインタレスト」を与えることにあるといった(『文学入門』、1950)ような価値観です。

こうした価値観からは、多くの「ファミリー四コマ」は、ただ単にそのマンガを読んでいる「いま、ここ」の時間を楽しく過ごさせるだけのものに見えるでしょうし、また「いま、ここ」を楽しく過ごすことの価値は見えてこないと思います。

しかし、「慰撫すること/されること」や、マンガの「読み」における快楽そのものの価値は、やはり問い直されていいはずです。

 いわゆる「ファミリー4コマ」にかんする文章ですが、『らき☆すた』の原作も「萌え4コマ」であることを考えると、ある程度参考になる文章だと思います。この「慰撫」にこそ、『らき☆すた』の魅力の一旦があるのではないでしょうか。

 たしかに、『らき☆すた』は物語としてとくにおもしろい作品ではありません。えんえんとチョココロネの食べ方について議論するような、ゆるい、ぬるま湯的な作品です。

 しかし、それでもそこにはある種の魅力がある。ぼくが『らき☆すた』の関係性は魅力的である、というのは、『らき☆すた』のテーマがそこにある、ということではありません。そこに、見るものを慰撫する力があるということです。

 かがみとこなたのずれたやり取りを見ているだけで心いやされる、ということ。この作品は、ひたすら、まったり、ゆったりとした「擬似日常」にひたりたいという欲望に応えているのです。

 あたかも、何気ない日常のように演出された物語世界。そういうものに対する欲望をもたない、あるいはそこに魅力を感じないひとにとっては、『らき☆すた』は退屈な作品でしょう。

 けれど、だから製作サイドはただ適当に思いついたことを並べているともいえない。この作品は見るものを慰撫するゆったりした「擬似日常」を生み出すことを目的として演出されているのです。

 そして、その一方で、時間はよどみなく流れていく。いつものコメディに、少しだけセンチメントな場面が混じる。

 Changing sameという言葉をご存知でしょうか。変わりながら、変わらずにあるもの。『あずまんが大王』あたりでもそうですが、「擬似日常」を描く作品の到達点はそこらへんにあるようにも思えます。

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