ある会社の忘年会で、25歳男性のA君が、くじ引きで割りふられたメイド服を着てお酌をしてまわり、大いに受けを取ったというお話。
帰り道、同僚から「いやなときは断っていいんだからね」といわれたA君曰く、
「僕があそこで断ってたら皆が嫌な雰囲気になるじゃないですか。それに僕が断ったものを他の人に回したら、その人だって気分良くないだろうし」。
いいひとだ! いいひとだなあ。もっとも、コメント欄を見ると、社会人ならそれくらいは当然、という意見もちらほら見つかる。ま、それはそうかもしれない。
でも、たとえ着るとしても、そのことを屈辱と受け止め、苦々しさと恥辱感を感じてしまうひともいると思うんだよね。
もし、少しでも「いやいや着ています」という態度を出したら、見ているほうも白けるし、その場はちょっと気まずい雰囲気になるだろう。陽気に振舞うからこそ笑い事で済む。
きっと、それからあとは同僚たちがA君を見る目も変わっただろうと思う。
人間同士のコミュニケーションに必要なものは、本当は「コミュニケーションスキル」なんてあやしげな代物じゃなく、こういう無形の精神なのかもしれない。
同じ内容のことでも、軽く受け止められるひとと、深刻に受け止めてしまうひとがいる。長く険しい人生を生きるにあたって、その差はけっこう大きい。
そうやって物事を軽く受け流すことが出来るようになると、小さな失敗で落ち込むことも減って、生きることがずっと楽になるからだ。
もちろん、いうほど簡単なことではないし、ぼく自身、なかなか出来ない。でも、もしもA君みたいになれたら、きっとあたらしい世界が拓けるに違いない。
いや、ぼくもメイド服を着てみたいってことじゃなくてさ。
付記。
「こういうときはちゃんと空気読め」という話だと思われると困るから、付記しておきます。そういうことではなくて、物事をどう捉えるかという問題だと思う。
やりたくないことをやりたくないと拒否することは個人の自由だし、その権利は保障されるべき。
でも、いったんやると決めたなら、屈辱を感じながらいやいややるより、積極的に楽しんだほうが、本人も周囲も楽しいんじゃない?ということ。
この場合、むりやり女装を強要されたとはいえないと思うんだよね。十分に逃れる余地はあったんだし、A君の同僚もそうするだろうと思っていた。
それなのに、A君は自分の意思でメイド服を着ることを選び、周囲を楽しませ、本人も楽しんだ。
なかなか天晴れなパフォーマーじゃないか、と思うわけです。