傷口に包帯を。

少なくとも、今まさに自分は価値の無い人間だ、自分の人生は無意味で辛いものでしかないという自己嫌悪感と戦っている人間には、自分で自分を受け入れろという言葉は、ある種の「切り捨て」でしか無いと思う。とりあえず、kaienさんがどうやって自己嫌悪感から抜け出したか、その経緯を知りたいです。

 聞きたいですか? ま、べつに話してもいいんだけれど、長くて暗くて退屈な話だよ。それに、まったく、自分でもうんざりするくらいよくある話でもある。

 ぼくはふだん、日記では自分語りはしない。だって、仕事で失敗して怒られただの、今日の夕飯はチキンカレーだっただの、そんなことを書いてもおもしろくないだろうから。

 ぼくの日記はエンターテインメントである。読んだひとがおもしろいと思わないだろうことを書く気はない。

 ただ、まあ、今回は特別に自分のことを書いてみることにしよう。たまにはいいだろうし、ぼくにとってもいい整理になるかもしれない。あるオタクのちょっぴりナルシスティックな自分語りだと読んでくれ。

 ひとがどんな経緯を経て人生に失望するか、いろいろな例があると思うが、ぼくの場合、すべては思春期にさかのぼる。

 いまから15年前、中学生のぼくは、ひとのいう「スクールカースト」の最底辺で暮らしていたといえると思う。小生意気な態度が悪かったのか、要領が悪いところが気に障ったのか、とにかく気づくとクラス中に敵を作っていた。

 いろいろとおもしろいエピソードがあるのだが、なかでも愉快な話としては、顔に焼きごてをあてられたことがあった。ま、それは大袈裟すぎる言い草かもしれないが、教室で顔を焼かれた経験があることは本当である。

 Hという生徒が教室に置いてあった鉄の棒をストーブで熱し、教室で寝ているぼくの顔に押しつけたのだ。あの時は、痛かったなあ(遠い目)。

 21世紀も近いあの頃、そんな拷問めいた経験をしたことがある人間もあまり多くないだろう。実に貴重な体験をさせてもらったというしかない。Hには感謝しなければ、と思う。いや、思わないけど。

 さすがにこの時は教師にばれた。朝は無事だった生徒が、顔に大きなやけどの痕を付けているのだから、いくらなんでも気づくわけである。

 ぼくは数学の時間に保健室へ連れて行かれ、治療を受けた。そしてその日の夜、あいての母親が、アイスクリームをもって詫びに来たのだった。

 彼女は実になさけなさそうで、Hはそのとなりでにやにや笑っていた。その場の空気がどうにも白々しくて居心地が悪かったことを憶えている。アイスクリームは美味しくいただいたけどね。

 しだいに、暴力はエスカレートしていった。が、あまり思い出したい話ではないから、ここらへんの具体的な描写はカットしておこう。ひとついえるのは、当時のぼくには、学校社会に順応する能力が致命的に欠けていた、ということだ。

 そしてさらに悪いことに、順応する気もなかった。どんなに殴られても、蹴られても、あざけられても、からかわれても、ひとに媚びて仲良くやっていくことはいやだった。

 大嫌いなだれかに愛想笑いを浮かべて媚びるくらいなら殴られたほうがましだと、いまでも思う。ぼくには強情なところがあるのかもしれない。ま、もともと感情的な人間なんですね。

 そのとき何より耐えがたかったのは、すべてがあまりに陳腐なことだった。初めて体験した過酷な現実は、3流テレビドラマさながらにチープだった。せめてもっと独創的な苦しみならいいのに、と思った。

 だからぼくはそれまで以上に読書に没頭するようになった。下らない現実より、本のなかの物語のほうが、よほどおもしろいように思えたからだ。じっさい、いまに至るまで、あの頃ほど熱心に読書に打ち込んだことはない。

 そんな月日が1年以上も続いただろうか。ぼくは毎日死にたいと考えるようになっていた。そして同級生を殺してやりたいと思うようになった。どう考えても自分にはその正当な権利があるように思えた。

 あなたがもし殺意というものを知らないとすれば、幸運なことである。それは本当にどす黒い感情なのだ。脳が沸騰するような、といえばいいだろうか。

 小説家ではないぼくはほかに形容する言葉をもたないが、そういう心理をくわしく知りたいと思う方は乙一の『死にぞこないの青』という小説を読んでほしい。

 この作品を読んだのは、たしか大学生の頃だと思うが、あまりにもぼくの体験そのままなのでおどろいた。作家の想像力とは、怖ろしいものだ。

 しばらくのあいだ、そんな暗黒の季節は続いた。しかし、結局、やがてはそれも終わりを告げた。具体的な経緯は省くが、すべては明るみに出、問題視され、解決が図られたのである。

 とにかくひとつのハッピーエンドではあったかもしれない。どんな下らない劇も、終わらないよりは、終わったほうがましというものだ。

 ところが、このハッピーエンドにはろくでもないおまけがついていた。事実を知った担任教師は「反省会」がひらいたのだ。

 クラスのひとりひとりの生徒が作文を書かされ、それが読み上げられた。それを聴いたぼくは、笑うしかなかった。だれもがあまりにも善良なことを書いていたからだ。

 じっさいに加害に加わった生徒は、ひとりのこらずきれいに「反省」していた。そして見ていただけの生徒はそろって「可哀想だと思っていました」と書いた。

 可哀想? ぼくが? しんと静まりかえった教室で、ぼくは本当に声をあげて笑った。笑うしかなかった。いままでの人生でこんなこっけいな経験をしたことはないと思った。

 可哀想だと思っていた? ぼくが顔を焼かれるところを黙って見ていて? だれひとりとして教師に知らせようともしなかったのに?

 ばかをいえ。あいつが殴られるところを見ておもしろかったと素直に書けばいいじゃないか。

 誤解しないでほしいのだが、ぼくはべつに助けてくれなかったかれらを恨んだわけではない。ぼく自身がだれにもいうことが出来なかったのに、ひとに期待するなどばかげている。

 本心からいうのだが、かれら傍観者たちを恨んだことはないと思う。ただ、可哀想とはあまりにひどい言い草に思えた。ぼくは笑い、そして思った。これが人間なのだ。どんなにうわべではきれい事をならべていても、これこそが人間の本性なのだ、と。

 しかし、どういうわけかそれでも人間に絶望することはなかった。たぶん、山ほど物語を読んできたおかげだろう。その暗黒面をふくめ、ぼくは人間が好きだった。問題は、人間のほうはぼくを好きではないらしいことだった。

 ぼくは他人を許すことが出来た。しかし、自分だけはどうしても許すことが出来なかった。ぼくにとっては、自分ただひとりだけが、人間の定義に入っていなかった。

 そしてぼくは中学校を卒業し、高校に入った。これはぼくにとってようやく安心を手に入れることを意味した。

 わかってもらえるだろうか。日常的に暴力にさらされてきた人間にとっては、その日一日を殴られずに過ごせるということは、ただそれだけで幸福なことなのだ。

 人間は過酷な環境では、長期的なことを考えられなくなる。その日一日を生きぬくこと、ただそれだけしか考えられないのだ。翌日のことなど考えたら心が苦しくなるから。

 高校に入って、ぼくは初めてあしたのことを考えることができるようになった。ほっと息をつくような出来事だった。

 けれど、その頃から奇妙な癖がついた。自傷癖である。ぼくは授業で使ったコンパスで、自分で手のひらを切り裂くようになった。男のメンヘラ、カコワルイ。でもまあ、仕方ないよね、やめられなかったんだから。

 結局、それから10年以上、つい最近までその癖は続くことになる。そしてありがちなことだが、自分を傷つければ傷つけるほど、そんな真似をする自分がきらいになっていった。

 いかにも心の弱い奴がやることに思えた。ただ甘えているだけだと思いもした。いつのまにか漆黒の殺意は自分自身へ向けられるようになっていた。

 死ね! そう自分へ向けて叫んだ。なぜおめおめと生きている? お前なんかに生きている価値があると思っているのか? 死ぬ勇気がないから自傷なんてするんじゃないか? こんな真似で同情を買いたいのか?

 でもやめられなかった。落ち込んだり、何か辛いことがあると、自分を傷つけた。だからその後大学に入学してからも、自分は人並みの人間とはいえず、ただの人間もどきに過ぎないように思えた。

 とてつもなく美化してかっこよくいえば、萩尾望都の『ポーの一族』に出てくる吸血鬼バンパネラたちみたいなものだ。

 いつもはふつうの人間に紛れてあたりまえの暮らしをしている。しかし決して人間と同化しきることは出来ず、そしてひとたび正体を悟られればその場から逃げ出さなければならない……。

 あるいは『妖怪人間ベム』か。明るく楽しく生きるすこやかな人間たちの社会に紛れ込んだ、みじめな人間もどき。それがぼくの自己イメージだった。まったく、楽しい人生である。

 つまらない不幸自慢と思われるかもしれないが、ぼくはそれなりに苦しんだ。しょっちゅう壁に頭をぶつけるものだから、さいごには頭皮が瑕だらけになり、熱がひかなくなったりもした。

 いかにもメンヘラ的な恥ずかしいエピソードだが、夜中に包丁で手首を切って病院に担ぎ込まれたこともある。麻酔をかけられ、糸で傷口を縫われるのは実に奇妙な感覚だ。ぜひ一度体験してみることをお勧めする。

 そういう日々が、結局、つい先日まで続いた。それがなぜ自分を受け入れられるようになったのか? 何か劇的なエピソードがあればいいのだが、実は特にない。

 ただ、ぼくは思うようになったのだ。もういいのではないか、と。もう自分をいためつけなくても許されるのではないか、と。時が傷を癒やしてくれた、ということなのだろうか。ぼくにはわからない。

 もちろん、そうやって少しだけ考え方が変わっても、あいかわらずぼくの人生は冴えないままだ。金もないし、女の子にも縁がないし、すごくいいことがあるわけでもない。

 ぼくは今日も無意味な趣味で時間をつぶしている。

 本を読む。ブログに感想を書く。オナニーする。2ちゃんに悪口を書かれて落ち込む。あしたからダイエットしようと決めて夜中に菓子を食べる。『らき☆すた』を見てカップリングを考える。

 エビピラフがうまく作れず悩む。日記にいいかんなことを書いて突っ込みを受ける。エロゲをプレイしてうっかり感動しそうになる。長編漫画を大人買いして一気読みする(最近のオススメは『MOONLIGHT MILE』)。

 いい年をして大人になりきれない男の冴えない生活。

 ぼくと同じ年で既に立派な業績をあげているひともいるし、子供を作って育てているひともいる。そういうひとと比べれば、ぼくの瑕だらけの人生はそう自慢できるものじゃない。

 けれど、好きな作家の新刊を書店で見つけたとき、たまたまおもしろいゲームを見つけたとき、自分はけっこう幸せだと感じる。

 ぼくの左腕にはいまでも自分でつけた傷がはっきりと痕をのこしている。その痕はたぶんもう一生消えることはないだろう。しかし、いまならこういえる。その傷痕もふくめてぼく自身なのだと。あの痛みと苦しみがあったからこそ、いまの自分があるのだと。

 まったく、われながら陳腐な言い草。ひとがいったら、下らないきれい事をいう奴だと思うに違いない。しかし、どうやらいまのぼくにとってはそれが真実らしい。

 ぼくの人生はあまり明るいことには縁がなかった。でも、それでも、いまではけっこう生きることは楽しいと思えるようになった。

 本当のことを言うと、いまでも人間は怖い。でも、それもふくめて自分なのである。ぼくの人生はすべてぼくのものだ。だから痛みも、苦しみも、ぼくを構成するかけがえのない要素のひとつだ。

 思い出すと叫びだしたくなるようなことはたくさんある。みじめで、なさけなくて、自分を殺してやりたくなるような記憶もたくさんある。

 ただ、ぼくはそんな自分を許してやろうと思う。しょうもない人生、ろくでもない生活、でもそれは何もかもぼくのオリジナルだ。欠点だらけの男の、欠点だらけの人生。悪くない。まったく悪くないじゃないか。

 スクールカーストの底辺だの、格差社会どん底だの、余計なお世話。いまなら確信をもっていえる。金がなくても、ひとに好かれなくても、そこそこ楽しく生きていくことは出来るのだ、と。

 ぼくは、こう思えるようになるまで15年もかかった。だから、本当は簡単にひとに楽になれなんていえるはずがない。

 いままさに人生を苦しいと感じ、死にたいほど辛いと思っているあなた、あなたにはきっとぼくには想像もつかないような苦しみがあるに違いない。

 ひとから見ればぼくの体験は大したものではないかもしれないが、それでもやはりその時は辛かったし、苦しかった。

 だからあなたが傷口をかきむしりたくなるきもちは、少しはわかると思う。ただ、それでもなお、ぼくは、そんなあなたに、どうか自分自身を許してほしい、と願わずにいられないのである。

 苦しみを乗り越えて「回復」した身の上から、偉そうに説教を垂れているように見えるだろうか。そうではない。ただぼくは頼んでいるのだ。ぼくには頼むことしか出来ない。

 ぼくは無力だ。どうしたってあなたが自分の傷口をかきむしることを止めることは出来ないのだから。ぼく自身、だれに何といわれようとやめることは出来なかった。

 だから、ただ、ぼくは頼む。お願いする。もしもいつか、あなたがそうしても良いと思うときが来たら、その傷口に包帯を巻いてやってほしい、と。

 それが決して簡単なことではないことを、少しはぼくもわかっているつもりだ。しかし、それでもなお、やはり自分を許すことは自分にしか出来ないのである。

 世の中には優しいひとがいて、ときにはなぐさめをかけてくれる。あなたには価値があると。いいところだってたくさんあると。けれど、どんな言葉をかけられても、自分で自分を信じられなければ、すべてはむなしい。

 そう、世界はあなたにひどいことをしたのだろう。あなたを傷つけ、踏みにじり、嘲ったのだろう。あなたにはたぶん世界を憎む正当な権利があるのだと思う。

 しかし、それでも、どうか、あなた自身を苦しめすぎないで下さい。ひとが何と言おうと、あなたの人生の価値はあなたが決めていいのである。

 いや、きっとあなたはもうそのことに挑戦しているのかもしれない。そのことをめざしていまもたたかっているのかもしれない。

 それなら、ぼくはあなたを応援する。この苦しい時代をともに生きる人間のひとりとして、そうさせてもらう。

 生きることはだれにでも許されているとぼくは思う。たしかにこの世界は喜びだけで満たされているわけじゃない。けれど、決して暗闇だけに塗りつぶされているわけでもない。その気になれば、いくらでも綺麗なものは見つかる。

 どんなにきれい事と笑われても、それは事実だ。事実だとぼくは信じている。本当に苦しんだことがある人間こそ、本当の幸せがわかるんだってね。

 もう一度いう。人生の価値はひとがそこにどんなレッテルを貼るかで決まるわけじゃない。ハゲでもデブでもキモメンでも、馬鹿でも童貞でも要領が悪くても、楽しく生きることは出来る。

 ぼくはそう、信じている。

「はじめは、僕もどうしたらいいのかわからなかった。あまりにも相手は絶対的すぎて、勝ち目なんか見つからないし、かといってどこにも逃げ場所なんかない。誰も助けてはくれないし、助けられないのもわかる。こんなことなら、死んだ方がずっと楽なんだと、そう思ってました」

「でも、その考えを受け入れてしまうのはいやでした。負けを認めた父だって、その最期のカードだけは切っていない。彼はなんだかんだ言って未だに戦っています。土下座の頭を踏まれながらも。僕は土下座はしたくないですが、ああいうのは素直に尊敬します」

「それに、よく考えてみれば、これはそう悪くもないんですよ」

「だって、傲慢でむかつく何かが、僕の手の届くところまで入って来てるんですよ。他人事なら黙って見ているしかないですが、もう僕は傍観者じゃないんだ。僕の意思で戦うことが出来るんです。ずっと嫌っていたあいつに、意地を見せつけるチャンスじゃないですか」

――『SWAN SONG