昨日の記事に、こんなブクマコメントがのこされていた。
と言われても、そう簡単にポジティブにはなれない。なれないものはなれない。だから楽にもなれない。なれないものはなれない。
それはそうだろう。
ぼく自身、いろいろなことをくぐり抜けて、最近になってようやく「ダメな人生も悪くないな」と思えるようになった。
それまでは、ひとにどんなに励まされても、慰められても、無意味なきれい事としか思えなかった。自分の人生は無価値で、無意味で、辛く、苦しく、やりきれない代物に過ぎない、そうとしか思えなかった。
だから、ぼくの言葉がひとの想いを変えられないとしても、何も意外だとは思わない。
ひとがその何十年もの人生で経験した失敗と挫折、苦しみと悲しみの思い出は、他人の言葉などよりはるかに重く、そのひとを規定しているものである。ちょっとやそっとのことでは、人間は変わらないし、変われないのだ。
ネットには、自分がいかに不幸で、不遇で、酷い目に遭って来たか、延々と語るひとが少なくない。かれらはまるで、本来なら与えられるはずの幸福の割り当てが、なぜか自分のところには届かなかった、と主張しているようだ。
そうやって話すことで少しでも楽になれるならいい。しかし、ぼくの目には、話せば話すほど、より不幸に陥っていくように見える。
楽になればいいのに、と思う。自分を責めることをやめ、世界を責めることをやめれば、ずっと気楽に生きられるはずなのに、と。けれど、そんな言葉はかれらには届かないだろう。
『SWAN SONG』の結末近く、あまりにも暗く陰惨な地獄をくぐり抜けたあと、主人公の尼子司はこう呟く。
「醜くても、愚かでも、誰だって人間は素晴らしいです。幸福じゃなくっても、間違いだらけだとしても、人の一生は素晴らしいです」と。
これこそ、『SWAN SONG』一編を貫くテーマである。ひとの一生の価値は、成功したとかしないとか、幸福だとか不幸だとか、そんなことで決まるわけではないということ。
しかし、司の恋人柚香は、そんなかれの言葉をあっさりと否定する。「そんな、きれい事なんか聞きたくないです」と彼女は言う。
「だってそうじゃないですか。尼子さんは、本当に汚くて嫌なものを知らないんです。だからそんなことを言えるんです。だって、私のこの見捨てられた人生が、素晴らしいわけないじゃないですか」。
司は、「それだって素晴らしいですよ」と言い切る。しかし、その言葉は柚香にはとどかない。
「それはやっぱりきれい事ですよ。尼子さんは何も知らない。私には、無理ですよ。何も素晴らしいなんて、思えないです」。
司が何といっても、柚香は納得しない。ひとはわかりあえないままで、言葉は、どうしようもなく無力だ。
司が、どんなに醜いものを見てきたか、どんなに酷い人生を生き抜いてきたのか、知っているのは読者だけ。長い長い物語の終わりに待ち受けているものは、そんな、あまりにすくわれない結末である。
そう、だから、ぼくがどんなに言葉を並べたところで、自分を不遇だと感じるひとの心には、「きれい事」としか届かないだろう。自分のように辛い思いをして来ていないからそんなことがいえるのだ、とそう思うだろう。
しかし、そうやって自分の苦しみに固執することによって、苦しんでいるのは、当の本人なのだ。そして、かれがそうやって自分自身をかきむしっているかぎり、だれもかれを楽にしてやることは出来ないのだ。
かれはいうかもしれない。こんなに苦しんでいる自分を見捨てるのか、と。お前だけ明るく幸福のなかに住むのか、と。そうではないのだ。どんなに助けてやりたいと思っても、かれが自分で自分を助けないかぎりどうしてやることも出来ないのだ。
だから、ぼくはそんなひとにいいたい。どうかあなた自身を許してやって下さい、と。
あなたは頑張って来たじゃないですか。ひとにいわせればつまらない人生だとしても、十分苦しんで来たじゃないですか。
たしかにその路程は光に満ちてはいないかもしれない。もっと良い人生を送っているひともいるかもしれない。でも、そんな想いに囚われることは、自分自身をもっと追いつめることにしか繋がらない。
だからもう自分を許してあげて下さい。だれも抱きしめてはくれなかったあなたの人生を、あなた自身で抱きしめてあげて下さい。
ひとに愛されなかったとしても、だれにも祝福されなかったとしても、あなただけは自分が必死に生き抜いてきたことを知っているはずだ。自分を鞭打つことはもういいじゃないですか。
人生の価値はひとがそこにどんなレッテルを貼るかで決まるわけじゃない。ハゲでもデブでもキモメンでも、馬鹿でも童貞でも要領が悪くても、楽しく生きることは出来る。
楽しく生きたっていいんだ。だれにだって、それは許されているんだ。ぼくはそう思うようになった。柚香なら、本当に醜いことを知らないからいえるきれい事だと、笑うだろうか。