『時をかける少女』を見ても死にたくならない。


 『時かけ』を見ると憂鬱になるというひとがいる。ぼくにはわからない感覚である。

 近頃気づいたのだけれど、ぼくにはひとがうらやましいとか妬ましいという気持ちが欠けているようだ。どんな本を読んでも、映画を見ても、そんなことを思ったことがない。

 ぼくの青春だってべつに明るくはなかった。いまとおなじように、ひたすら図書館から本を借り出し、読んで過ごしただけの、灰色の季節。

 でも、いまになって思えば、そんなに悪いものじゃなかったと思っている。ひどいこともあった。辛いこともあった。でも、それもまた思い出。

 真琴たちには真琴たちの時間があり、ぼくにはぼくの時間がある。それでいいと、いまは思う。

 そもそも、人間の人生は、ひと通りの尺度で測れるようなものじゃない。女の子にかこまれて、明るく笑って過ごせたら、それが「正しい青春」で、友達も恋人もなく、悩んだり苦しんだりして過ごしたら、「間違えた青春」だとは思わない。

 もしもそうだとしても、真琴や千秋の人生が、そんなありきたりの尺度で測りきれるほど安っぽいものだとは思えない。

 かれらはただたまたま人生の果実をたくさん分け与えられた「ラッキーな奴ら」ではない。

 そりゃ、千秋はイケメンだよ。真琴は明るくてさわやかで、いかにも楽しそうに生きているよ。

 自分を不遇だと思う人間からしてみれば、かれらは「スクールカースト」の上位に居座っている「ラッキーな奴ら」に見えるかもしれない。でも、スクールカーストなんて概念そのものがばかげていると、ぼくは思う。

 そんな尺度で測るなら、ぼくの思春期はみじめなものに過ぎないだろう。でも、自分の人生をそんな実在もしない階級制度にあてはめてほしいとは思わない。

 自分が犯してしまった致命的な間違いをあがなおうとして失敗し、坂を転がり落ち、瑕だらけになりながら泣き叫んだ真琴。その真琴を助けるために、自分のたったひとつの希望を捨ててしまった千秋。

 その姿を見て、ぼくはかれらを好きになる。かれらはぼくより幸運な人間かもしれない。明るい人生を送っているかもしれない。でも、そんなことはどうでもいいことだ。

 自分より不幸な人間しか好きになれないとしたら、ぼくはこんなふうに小説を読んだり映画を見たりすることが好きな人間にはならなかっただろう。

 そもそも、幸福であることがすべてなのだろうか。辛いこと、苦しいことは何もかも悪いことなのだろうか。成功者の人生だけが素晴らしくて、落伍者の人生は下らないのだろうか。

 ぼくもそんなふうに思っていたこともある。「普通の人」みたいに生きられない自分を責めたこともある。でも、もうすぐ30歳になろうとしているいま、自分のろくでもない灰色の前半生を振り返って、そうでもないんじゃないかと思うんだよね。

 このろくでもない、しょうもない人生も、案外それなりに悪くない。ようやくそういえるところまで、ぼくはたどり着いた。

 ぼくがたびたび推薦するゲーム『らくえん』の登場人物たちは、ほとんどがとある弱小エロゲメーカーの社員である。

 そのだれもが社会常識の欠落したダメ人間ばかり。そもそもこの会社じたい潰れかけで先はなく、作っているソフトも傑作にはほど遠い。

 主人公である「ぼく」は、そんな会社にアルバイトとしてやとわれ、まともな人生を外れて「堕落」していく。月給は、そう、たしか3万円くらいだっただろうか。

 かれはそんな薄給で馬車馬のようにこき使われる羽目になる。まともに計画を立てられる人間がいないから、製作スケジュールは狂いまくり、しまいには休む暇、寝る暇すらなくなる。

 社内は不潔だし、しょっちゅうセクハラジョークが乱れ飛んでいるし、まともに条件を考えれば、最低の労働環境だろう。

 でも、それでいて、どいつもこいつもひどく楽しそうなのだ。世間から見れば、後ろ指を刺されるようなやくざな連中なのにね(じっさい、親会社はヤクザが営業しているとかいないとか)。

 それを見ていると、思う。オタクでももてなくても金がなくても、案外、悪くないものじゃん、と。

 もちろん、こんなことを書いても、じっさいに自分は不遇だと思っているひとが読めば、ただのつまらないきれい事に過ぎないように思えることはわかっている。ぼくも以前はそう思っていたからだ。

 これはただぼくがそう思うというだけのこと。でも、この考え方は楽でいいよ。少なくとも、ぼくは、以前より楽になった。楽に、なれた。

時をかける少女 通常版 [DVD]

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らくえん ~あいかわらずなぼく。の場合~

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