ニコニコ動画に作品消費の多様化を見る。


 ニコニコ動画を見ていると、ふしぎに思うことがある。

 やたら二次創作が氾濫している作品と、まるで見かけない作品があるように思えるのだ。

 例に挙げるまでもなく、『涼宮ハルヒの憂鬱』や、『らき☆すた』は膨大な量のマッドムービーを生み出している。たしかめたわけではないが、100や200では利かないだろう。

 『ハルヒ』なんかはもう、ありとあらゆるかたちで改変され、消費されているといっていい。

 ED、OPの曲や映像だけを取り出して改変したり、

 あるヒロインの片思いものにしたり、

 男同士の心中ものにしてみたり、

 あげくの果てには自分で歌を歌って本編に被せてみたりしている。

 やおいからギャグから、何でもあり。ネットの発展によって、映像作品は、いままででは考えられないほど多様なかたちで消費されることになった。

 ひとつの作品が発表されると、即座に製作者側ですら想像もしないような楽しみ方が発明される時代。法的には多々怪しいところがあるとしても、ここにはある種の文化的な豊かさがあるといっていいと思う。

 しかし、それは、作品がばらばらに分解されて消費されるということでもある。

 あらゆる映像作品は、その作品を成り立たせるための無数の要素によって構成されている。映像、キャラクターとその声、音楽、アクション、ナレーション、アイキャッチ、などなど。

 そして、そういった要素をまとめる「たが」の役割を果たしているのが物語である。物語があるからこそ、ぼくらは次々と浮かび上がる映像を首尾一貫したものとして認識できる。

 逆に言えば、無数の映像や台詞を内容的に一貫したものとして並べたものを物語と呼ぶ、ということも可能だ。

 MADを作るということは、この物語というたがを外し、作品をいったんばらばらにした上で、再構成して楽しむということだ。

 こういう楽しみ方をするためには、キャラクターや映像などの要素が、物語から遊離したときにもなお魅力を有していることが重要だろう。

 ま、簡単にいえば、そのキャラクターを見ているだけでしあわせになれるか、EDのダンスだけを抜き出しても気持ちよくなれるか、そういうことが大切なのだと思う。

 一方で、どんなに感動的な物語でも、MAD欲をそそらない作品もあるようだ。たとえば、ニコニコで検索してみても、『精霊の守り人』のMADはあまり見かけない。なくはないけど。

 合っていないな(汗)。

 この差をたんなる人気の差と考えることもできなくはない。でも、『精霊』本編を見ていると、そこに寄せられるコメントはほとんど絶賛的なものばかり。それだけ見ていると、もうちょっとMADがあってもいいんじゃないか、と思えるんだよね。

 ま、ぼくもオタクですから、感覚的にはその理由がよくわかる。たぶん、物語性が強く、作風がリアリズム寄りの作品は、二次創作には向かないのだろう。

 ということは、同じように優れた作品でも、一次創作完結型と二次創作波及形があることになる。

 これからも一次完結型の作品に需要があるのかどうか、ちょっと心配だ。『精霊』のDVD、ヒットするといいのだが。とても良い作品だから。

らき☆すた 1 限定版 [DVD]

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