全非モテ推奨ソフト


 『SWAN SONG』は、大地震によって崩壊した世界に生きのこった6人の若者たちを描いた作品である。

 この物語のなかで、「裏主人公」とでもいうべき役割を果たすのが鍬形拓馬という青年だ。

 いつも自信なさげで、おどおどとしていて、ゲームオタクで、片思いのあいてに告白することもできないかれは、典型的な「非モテ」そのもの。

 ところが、かれはあらゆる倫理が崩壊したこの世界で、だれよりも非情にふる舞うことによって、指導者としてのし上がっていく。

 そして、あるとき、暴漢たちに襲われているところを助けたことから、小池希美という少女と肉体関係に陥る。鍬形にしてみれば、愛とも感傷とも無縁の、ただの肉の交わりに過ぎないものだった。

 しかし、かれは希美と交情しているさなか、彼女から「好きだ」といわれて戸惑うことになる。かれはだれかに好かれることに慣れていなかった。自分に愛される価値があるなどとは信じられなかった。

 ようやく体験したセックスは、どれほど快感をもたらすとしても、あるいはそうだからこそ、かれには薄汚いものとしか思えなかった。

 そして、すべての人間が、その薄汚さを抱えていることを思うとき、人権だの道徳だのといったたわ言は、まるで無意味に思われてくるのだった。ここらへんは、ほとんど本田透が『電波男』で現実のセックスを豚の交尾にたとえたことを踏まえているかのようだ。

 しかし、希美は、かれがどれほど否定しても、鍬形のことを好きだと主張しつづける。鍬形はいう。

「そんなのヘンだよ。信じられない。もしそうだとしたって、希美はボクが命の恩人だから我慢してくれているんだよね?」

 違う、と希美は答える。本当に鍬形のことが好きなのだと。鍬形にはその言葉が理解できない。かれにはどうしても自分がひとに好かれるということが理解できないのだ。

 どんなに成功しても、その成功の価値を信じることができない。愛されれば愛されるほど、その愛への不信がふくらんでいく。かれは骨の髄まで「非モテ」的である。

「だってボクは恥さらしな負け犬だよ? 殺そうとした相手にさえお情けをかけられて、おめおめ命を拾ったんだ!」

「この先何をしたって、ボクはずっと、自分は誰の眼中にもないウジ虫だって、そう思いながら生きて行かなきゃならないんだ。生きているだけで拷問みたいなもんさ。こんな卑屈な考え方はいけないってわかってるけど、でも考えないわけにはいかないんだ。こんなボクを好きになるやつなんかいないよ。ボクだって大嫌いだ」

 底なしの古井戸のような自己嫌悪。ひとを殺し、犯し、苛んで手に入れた権力は、鍬形をよりいっそう苦しめるだけだった。

 そんなかれに、希美は「でも好きなの」といいつづける。いったいどうして?

 エロゲのエロシーンを読んでいて感銘を受けたのは、あとにも先にもこの時だけである。