血に染まる大河――『奔流』

奔流 (祥伝社文庫)

奔流 (祥伝社文庫)

「おれは少年のころ友人たちとともに駿馬に騎って山野を駆けた。風を切って疾走するこころよさ。耳もとで風が叫び、呼吸は火のように熱い。一矢で鹿を射倒すと、その肉を食べ、血をすすったものだ。いま宮廷の高官となって、山海の珍味をほしいままにしているが、どのような美酒も、あのころすすった鹿の血にはおよばぬ……」

 歴史は一本の河である。

 ときに凪ぎ、ときに荒れながら、ただはてしなくながれていく。

 血が河面を赤く染めることもある。後世のひとは、そんなかなしみの時代を指して乱世と呼ぶ。

 3世紀から6世紀にわたるいわゆる魏晋南北朝時代は、中華帝国の長い歴史のなかでも屈指の乱世にあたるだろう。この頃、中国は南北に分裂し、まとまることがなかった。

 もちろん、統一しようとする意思そのものは存在し、しばしば人馬の奔流と化して北から南へ押し寄せ、そのたびに死闘を生んだ。

 そんな死闘のひとつに鐘離の戦いがある。南朝梁がまだ建国まもない頃、北朝魏はその数、80万におよぶ大軍を編んで梁に攻め入った。

 守る梁軍は30万。はたしてかれらはいかにして圧倒的な奔流を食い止めたのか? 田中はこの地上最大の大軍が淮河のほとりにに敗れ去るまでを、丹念にえがき出していく。

 ちなみに、この数十年後を舞台とする梁亡国の物語が「長江落日賦」であり、その後日談が「蕭家の兄弟」ということになる。そしてそのさらに後、隋の時代のことは『風よ、万里を翔けよ』で語られている。

 歴史は一本の河であり、ひとつの物語はかならずほかの物語へと続いている。優れた歴史小説はそんなことを思い出させるものだ。

 しかし、とりあえず『奔流』に話を限ることにしよう。

 本書の主人公は陳慶之という青年である。この物語が始まる年に、かれは若干23歳、しかし、既に梁国の将軍の地位にある。

 寒門の出身でありながら、その才能を見出され、栄達したのだ。おどろくべきことに、この陳慶之は実在の人物である。かれが若くして将軍になったことも、天才的な用兵家であったことも、本当のことらしい。

 かれは寡兵を率いて北朝を攻め、たびたび大軍を破り、いっとき洛陽を陥落させた。

 そして、その史実を踏まえた上で、田中はこの人物を大胆に脚色していく(ちなみに、史実のほうに興味がある方はここらへんをご覧ください)。

 史実の天才将軍は、小説のなかでは才能はあるがどこかたよりない青年となり、不器用に恋に悩んだりする。

 こういった脚色を史実をねじ曲げていると見ることは野暮だろう。この物語は、教科書ではなく、歴史書でもなく、小説なのである。小説が小説としての魅力を第一に考えるのは当然のことだ。

 本書のなかの陳慶之は、千数百年の昔、じっさいに黄土の血でたたかった陳慶之そのひとではありえないが、しかし魅力的な人物である。小説としてはそれで十分だ、とぼくは思う。

 逆に、どんなに史書に忠実であろうと、魅力的でない人物は、小説の登場人物としてふさわしいとはいえない。

 陳慶之は梁軍の一翼を担って鐘離の戦いに赴く。両軍合わせて百万をこえる軍勢が相打つこの大決戦は本書最大の見所。

 あったかいベッドに寝そべって、ひとが苦しんで死ぬ話を読む。これこそ人生の楽しみですね。