中国三千年――『黒竜潭異聞』

黒竜潭異聞

黒竜潭異聞

「ご心配なく。敬侯の子孫として、旬家の名を辱ずかししめるようなことはいたしませぬ」
 さわやかに言い放ったが、内容は重い。杜曽の軍に囚えられるようなことになれば、名前を明かして敵将の前に立つ。姦されるかもしれない。だが隙を見て短剣で杜曽を刺殺する。みずからの勇猛を恃む粗暴な男には、かならず隙があるはずだ。

 田中芳樹の中華小説短編集。

 再読である。以前読んだときにはそれほどの出来とも思わなかったのだが、読む側の意識が変わったためだろう、とてもおもしろく読み上げることが出来た。

 4世紀、西晋の時代を舞台とした「宛城の少女」から、16世紀、明の治世に暗躍した宦官を描く「黒竜潭異聞」まで、全11編が時代順に収録されている。もちろん出来不出来はあるが、総じて緊密にまとまった佳作である。

 そのなかからあえて白眉を選ぶなら、「蕭家(しょうけ)の兄弟」あたりになるだろうか。

 中国が南北に割れた南北朝時代南朝梁で名君として知られた武帝の後継者争いの物語である。

 武帝は皇帝でありながら仏教に帰依することあつく、菜食を守り、「皇帝大菩薩」と呼称された。後世の詩人杜牧が「南朝四百八十寺」と詠ったのは武帝の時代のことである。

 かれには昭明太子と呼ばれる長男がおり、このひとは「文選」の編者として歴史に不滅の名を遺したが、武帝より早く亡くなってしまった。

 ふたりとも世界史の教科書に名前が載っている有名人だから、ご記憶のる方も多いと思う。

 武帝の死後、かれの七男と八男は皇帝の座をかけて争いあい、ついには梁一国を滅亡に追いやることになる。南朝で兄弟喧嘩に熱中しているうちに、北朝の軍勢に亡ぼされるのだ。

 そして長い長い南北朝の分裂時代はようやく終焉に向かい、世界帝国隋が誕生するのである。

 一方、その隋を一代でほろぼした暴君煬帝に仕えた男、沈光を描いた「猫鬼(びょうき)」も楽しい。

 話そのものは他愛ない怪異譚に過ぎないが、沈光のさっそうとした勇姿は印象にのこる。

 沈光は長編『風よ、万里を翔けよ』の登場人物でもある。若くして煬帝高句麗遠征に付き従い、その戦場で活躍して勇者として知られるようになった。

 そして煬帝が家臣たちに暗殺されると、わずか数百騎の手勢を駈って大軍に立ち向かい、二十代にしてその命を散らすのである。

 隋朝一代を通じて屈指の快男子といっていい、ように、小説を読むかぎりでは思える。もちろん、「猫鬼」の時点ではそれもまだ未来の出来事だ。

 「黒竜潭異聞」はそれから数百年のちに明にあらわれたひとりの宦官の物語。

 宦官とは、男性機能を去勢されて皇帝に仕える男たちを指す。本来、政治にかかわれるような身分ではないのだが、中国の歴史上、しばしば君側にあって君主をたぶらかし、国政を壟断した。

 この物語の主人公、劉瑾ははみずから宦官となって皇太子に仕え、皇太子が皇帝となってからは忠臣を追放し、反対者をおとしいれ、政治権力を一手に握る。

 人臣として可能なかぎりの富貴をきわめ、さいごには簒奪を目指すのだが、果たせず処刑台の露と消えることになる。とんでもない極悪人ではあるものの、500年の時を離れて傍観するかぎりではおもしろい。

 中国三千年。おもしろい話や人物は無数にあるはず。今後も好短編を期待したい。