公正なる私闘――『玻璃の天』

玻璃の天

玻璃の天

「俺の思う美とはね、人の気持ちをたいらかにしくれるもんだな。眦(まなじり)を上げて、エルサレムに向かわせるなら、神の美じゃなくて、悪魔の美だね。――そりゃあ、神を奉じるのは悪いことじゃない。神を内に持つのは、いいことだろう。何かと支えには、なるだろうよ。だがね、俺には、ご立派で荘厳な神様なんか、いらない。――《わたしよりも、異教徒一人の命の方が、よほど大切なのだ》と説く神がいたら、――そういうことを、勇気を持って語れる神が現れたら、その時こそ、俺は神の前に跪くね」

 上質である。

 文章がどうこう、人物がどうこうという話ではない。

 文章も構成も人物も含めた作品全体に凛とした品格があり、読むものは背筋をのばしてしまう、そういう意味で、上質な小説である。

 北村の小説がいつもそうであるように、この物語もどこかお伽噺めいている。生々しく泥臭い現実から5センチほど浮遊しているように見える。

 かれの作品をきらうひとは、そこをうそ臭いと思うのだろう。現実はこんなきれい事で済むものではないと。

 しかし、北村は決してただ現実から目を背け、夢物語に逃避しているわけではない。

 たしかに、かれの紡ぐ小説世界は、上品であり清澄であり、世間の汚濁とは無縁に見える。

 だが、その実、北村文学の凛然たる気品は、現実の醜悪から逃がれるのではなく、敢然と対決するところから来ているのだ。その事実は、この一冊を読めば、だれの目にもあきらかなことだろう。

 本書『玻璃の天』は、『街の灯』に続く昭和ものの第二作である。

 いまをさかのぼること七十年の昔、昭和初期の帝都東京が舞台。語り手は、ある名門女子校に通う大富豪の令嬢、いわゆる「お嬢さま」である。

 なみの作家が書けばいやみにもなりかねない設定だが、さすがに北村は凡手ではない。何不自由なく育ったからこそ身についた健やかさが、ごくごく自然に伝わってくる。

 探偵小説の王道として、語り手がいれば探偵がいる。この作品の場合、その探偵も、うら若い女性だ。「わたし」の父親にやとわれた女運転手、通称「ベッキーさん」。次々に発生する難事件を、快刀乱麻の名推理で解決していく。

 もっとも、「わたし」も彼女の言葉に耳を澄ませるばかりではない。ときにはむしろ彼女が率先して事件を解いていく。そういう意味では、「わたし」とベッキー、ふたりでひと組の名探偵というほうがあたっているかもしれない。

 もちろん、「わたし」にしろ、ベッキーにしろ、金田一耕介のような職業探偵ではない。警察の捜査に口を出すことなど不可能だ。彼女たちは自分の生活のなかで謎と出逢い、解き明かしていくのである。

 今回、「わたし」の前に立ちふさがる謎は三つ。ひとつは、浮世絵盗難にまつわる謎。ひとつは、乱歩の「二銭銅貨」を髣髴とさせる暗号解読。そしてもうひとつは、雪上に消えた足跡の問題。

 それぞれの事件は無関係なように見えて、底のほうでつながっている。そして、このシリーズの場合、どうしようもなく世情と結びついてもいる。

 暗い時代だ。

 上流階級に属する「わたし」の生活は穏やかだが、そこにすら軍靴の音は響いている。その点が、同じ北村作品でも、平和な現代を舞台にした「円紫師匠もの」とは決定的に違う。

 個々の謎は解けるだろう。個々の事件は解決するだろう。しかし、それらを踏みしめて戦争へと向かう世相を変えることはできない。それは一少女、あるいは一運転手には抗いようもない巨大な歯車運動だ。

 北村は、第一作『空飛ぶ馬』の頃から、市井に生きる人々のささやかな幸福を、愛情をこめて綴ってきた。そして、傑作サスペンス『盤上の敵』に至って、ついに、非情な暴力が個人を圧殺するさまを描いた。

 そしてしばしば社会とは、思想とは、個人にとって暴力そのものである。この作品でも、その巨大な暴力は、人々のはかない想いを、あっさりと踏みつぶしていく。

 北村はこの理不尽から目を背けない。かれの小説が甘いきれい事に終わらない理由がここにある。

 北村は人間の自由が、尊厳が、いつ砕けるともしれない薄氷の上になり立っていることを知っている。どんなに明敏な理性も、圧倒的な暴力をまえにして無力であることを知っている。そして作中の「わたし」たちもまた、物語をとおして、その事実を痛感させられることになる。

 しかし、北村も、「わたし」も、その無力を嘆くだけにはとどまらない。

 「わたし」とベッキーは、どうしようもなく暴力的なシステムのなかに謎を見出し、解くことによって、このシステムに公正なる決闘を挑むのである。

 公正。

 おそらく、このひと言が『玻璃の天』一作の主題であろう。

 暴力とは不公正なものだ。ひとが必死に積み重ねた理論の塔を、一瞬で突き崩すこともできる。将棋に負けたこどもが盤をひっくり返すように。

 しかし、真に公正な精神は、そんないかさまを認めない。どこまでも、どこまでも、真摯に堂々とたたかいぬく。その崇高なる無力。それこそ、北村の小説世界を、内側から支える柱である。