『女嫌いのための小品集』

女嫌いのための小品集 (河出文庫)

女嫌いのための小品集 (河出文庫)

 パトリシア・ハイスミスは世界的に有名な推理作家である。

 一定以上のお齢の方なら、アラン・ドロン主演の名画『太陽がいっぱい』の原作者といえばわかってもらえるかもしれない。

 この『女嫌いのための小品集』は、その作家による非ミステリ掌編集。お伽噺の魔女さながらに邪悪な女たちを主人公に、十七の掌編が紡がれる。

 珠玉の名品ぞろい、と持ち上げたいところだが、そう形容するには強烈すぎる話ばかりで、じつのところ、ひとに薦めて良いものか迷う作品も少なくない。

 もしあなたが世間の卑俗な小説に飽き飽きしていて、何か強烈な悪意に満ちた作品を切望しておられるなら、きっとこの小品集はお気に召すことだろう。

 その反対に、醜いもの、どす黒いもの、グロテスクなものは現実だけで沢山だとお考えなら、これほど期待に反する本はない。決して、決して、手をのばしてはならない。

 ようするにこの本は苦すぎるビターチョコレートみたいなものだ。ひと口食べただけで舌が痺れるほど苦いのに、どういうわけかその苦味が癖になって、次々と手をのばさずにはいられない、そんな一冊。

 ためしに巻頭作の「片手」を見てみよう。この物語の主人公は、ある男に「お嬢さんをください」と頼んだために、彼女の片腕を押しつけられる青年である。

 困惑したかれは何とか彼女との「同居」を解消しようとする。しかし、そもそも結婚の事実がないのだから離婚しようもなく、押しつけられた片腕のことを話せば、まるで自分が切り取ったようにののしられる。

 さいごには精神病院に閉じこめられ、だれにも理解されないまま、発狂して死んで行く羽目になる。いっそ小気味良いほど救いがない。

 女性の片腕を切り落として手もとに置くという趣向は、川端康成の「片腕」を思い起こさせる。ただ、ここにはあの妖しいフェティシズムの影は見当たらない。ここでの片腕は不条理な現実と、そしてそれ以上に不可解な「女」なるものの象徴である。

 しかし、この程度はまだ序の口。本書に収められた十七篇のなかで、ひときわおぞましい作品をひとつ挙げよといわれたなら、ぼくは躊躇なく「出産狂」を選ぶ。これは恐い。

 タイトルにある通り、この短篇は出産をめぐる物語である。殺人や窃盗と違って、出産は本来、祝福されるべき物事とされているものだろう。しかし、ハイスミスの筆はあっさりとそれを狂気の象徴に変えてしまう。

 ある男性が何気なく結婚するところから恐怖の幕はひらく。かれを襲う悪夢は出産そのもの。はてしなく赤ん坊をのぞむ妻が、次々とこどもを身ごもりつづけるのである。

 最初はかれもそれを喜んだ。しかし、わずかなあいだにねずみ算のように増えていくこどもたちを見て、しだいにかれは追いつめられていく。

 双子がふた組つづいたかと思うと、冗談のように五つ子が生まれる。そのあとには三つ子がつづく。一家は経済的にも逼迫し、家のなかには始終こどもたちの泣き声が響きわたり、男は狂気にとらわれていく。

 妻は出産抑制剤を飲んでいるはずなのに、なぜ利かないのか? 医者に訊いてもあいまいなこたえが返るばかり。じつは、かれは知らないことだが、彼女は無意識のうちにその薬を飲むことをやめていたのだ。

 こうしてかれはすべてを失い、先述の青年と同じく病院行きとなる。しかし、考えてみれば、これはむしろ女性のほうが陥りそうな危機である。のぞみもしないこどもを産まされつづけた女性は少なくないのではないか。

 そこまで考えてみると、本書を単純なミソジニーの伝道書と読んでいいものなのかは疑問だ。表面的な「女嫌い」のその奥底に垣間見えるものは、深刻な「人間嫌い」の精神ではないか。

 なるほど、本書に登場する女たちは、皆、邪悪だったり、性的に奔放だったり、心が歪んでいたりする。

 しかし、そんな女たちにかってに自分の理想を押しつけ、それが叶えられないと知ると、彼女を殺してしまったりする男たちが、はたしてより優れた生き物といえるだろうか。かれらもまた、その愚劣さと醜悪さに於いて、似たり寄ったりの存在ではないか。

 ハイスミスはそんな人間たちのどうしようもなく愚かしい姿を、顕微鏡を覗く生物学者さながらの冷徹さでえがき尽くす。

 ちなみに、ハイスミスは人間嫌いが高じたあげく、生涯をスイスの山奥で過ごしたそうである。その同居人は数匹の猫だけであった、と伝えられている。