『東方綺譚』

東方綺譚 (白水Uブックス (69))

東方綺譚 (白水Uブックス (69))

 アジアにその名をとどろかせた最大の誘惑者たる源氏の君は、五十路にさしかかったとき、そろそろ死ぬ心づもりをしなければならないと悟った。二番目の妻紫の上は、彼が矛盾だらけの婚姻生活を通じていたく愛しつづけた人であったが、その前の年、この苦しみ多いうたかたの世でいささかの善行を積んだ人のおもむく浄土へと、一足先に旅立ってしまっていた。そして源氏は、彼女の微笑を、あるいは泣き出す前の眉のひそめ方を、はっきりと思いだせないことで心を悩ませていた。

 アカデミー・フランセーズをご存知だろうか。

 フランス学士院を構成する五つのアカデミーのひとつで、そのなかでも最古の団体である。その歴史はルイ13世の時代にまでさかのぼり、400年近くにわたってフランスの文化に貢献してきた*1

 歴代会員には作家のヴィクトル・ユゴー、詩人のジャン・コクトーなど、錚々たる面子がそろっている。また、常時一定の会員数を堅持しているため、世界的な著名人であっても会員になれずに終わった人物も少なくないという。

 マルグリット・ユルスナールは、そのアカデミー・フランセーズの歴史上、初めての女性会員になった作家である。

 本書『東方綺譚』はそのユルスナールの短編集。遠くギリシャから日本に至る東方世界を舞台に、九つの短篇を綴っている。

 その一本一本はごく短いが、内容的にはまさに珠玉の逸品揃い。読者はページをめくるうちに神話的な東方世界を旅することになるだろう。

 集中の白眉は巻頭作「老絵師の行方」。広大なる漢帝国(ということになっているが、じっさいにはいつの時代とも知れない幻想の中華帝国と言っていいだろう)を旅する放浪の天才画家とその弟子の物語である。

 この天才は俗世間のありとあらゆるものに美を見出し、平凡な画材を用いて森羅万象を画布のなかへ閉じこめる。かれが描き出す絵画はその美質に於いて本物を凌駕し、その絵を知るものは本物に満ちたりなくなってしまう。

 ある日、かれらは天子に呼び出され、その罪を告発されることになる。虚構と現実が逆転し、すべてが幻想へ沈んで行く結末は圧巻。

 アイディアそのものは非凡なものとはいえないが、その着想を活き活きと描き出す文章力は尋常ではないものがある。

 しかし、日本人の読者にとってそれ以上に興味深いのは、『源氏物語』を下敷きにした「源氏の君の最後の恋」だろう。

 博覧強記のユルスナールは日本文学にも堪能で、三島由紀夫の評論集も出しているほど(日本語版翻訳は澁澤龍彦!)。したがって、彼女の『源氏』は決してたんなる模作に留まらず、えもいわれぬ情緒をかもし出している。

 『源氏物語』全五十四帖のなかで、光源氏の最期を描いた「雲隠」が遺失していることはご存知のとおり。

 ユルスナールはその失われた(あるいは、初めから存在しなかった)一章に想像力を巡らし、「アジアにその名をとどろかせた最大の誘惑者たる源氏の君」の最期の日々を描き出す。ここらへん、見事と見るか、野暮と見るか、微妙なところだろう。

 いずれにしろ、アイディアだおれの凡庸な作品ではないことは保障する。それに、じつはこの作品の中心は源氏の君そのひとにはない。世を捨てて隠居しながら死を待つ源氏のもとに押しかける花散里こそ、この瀟洒な短篇の主人公である。

 ここでユルスナールは『源氏物語』の設定を大胆に改変し、花散里を身分にも美貌にも恵まれない平凡な中年女性に設定している。

 かつて源氏の情人であったこともあるこの女性は、思いびとの最期が間近に迫っていることを知って、そのしとねにはべり、さいごの寵愛を得ようとする。

 一方、源氏は病を得て視力を失い、彼女を見分けることができない。彼女は正体を偽り、現実の情人となるが、そのさきには皮肉な結末が待ち受けている。

 年老いて盲目となった源氏が触覚のみをもちいて花散里を愛するくだりは、紫式部というより谷崎潤一郎みたい。一方通行の悲劇を描いた恋愛小説であることは間違いないのだが、さまざまな手段を用いて源氏に近づこうとする花散里の姿はある種ユーモラスでもある。

 そのほかには、ヒンドゥー神話に材を得た「斬首されたカーリ女神」がおもしろかった。

 かつて完璧な睡蓮としてインドラの天空の玉座に在ったこの女神は、あるときその美しさに嫉妬した神々に斬首される。

 やがてその罪を悔やんだ神々により首とからだを結びつけられるも、そのからだは彼女自身のものではなく、僧侶を誘惑した罪で処刑された淫らな娼婦のものだった。

 肉のよろこびに慣れた娼婦の肉体は快楽を求め、カーリ女神はありとあらゆる忌まわしい男たちにそのからだをゆだねて回ることになる。その青ざめた頬を涙に濡らしながら。うわあ、山田風太郎の『伊賀忍法帖』だ!

伊賀忍法帖 (角川文庫)

伊賀忍法帖 (角川文庫)

 いまや清廉でもなく純潔でもないカーリ女神は、その旅の果てで賢者と出逢う。しかし、彼女が救われることはない。ただいつか訪れるだろう虚無という救済を夢見ることを知るだけである。

*1:もちろん、反発もあるようではあるが。