『めくるめく世界』

めくるめく世界 (文学の冒険シリーズ)

めくるめく世界 (文学の冒険シリーズ)

 いったい何者が、あんな高地に町を造ろうなどと考えたのだろう! あそこは雨さえ降らない。何しろ雲ははるか下のほうを流れているのだから。それはともかく、あなたが手を真っ赤にしてよじ登り、もう一歩というところまで来たとき、いきなり上から空き瓶の雨が降ってきた。あとからあとから、きりもなく落ちてくるので、あなたは陶器やガラスの空き瓶のなだれに巻きこまれ、振りだしの麓まで戻ってしまった。「なんてことだ!」ガラス瓶の山から這いでてきた一人の司祭があなたに話しかけて言った。「あの連中は酒を飲むことしか考えない。あの市はどこもかしこも、プルケ酒や、チチャ酒や、スペインの酒であふれ返っている。山と積まれたその瓶が、とうとう崩れだしたというわけだ。ああ! やっとの思いであそこまでたどり着いたのに、また登らなければならん。じつに情けない話だ!」

 傑作だ。

 傑作だと思う。

 高橋源一郎はこの本の帯でつぎのように絶賛している。

 「マルケスの『百年の孤独』を凌駕する作品」。未知の巨大な長編小説が出現する度に、このフレーズは繰り返し使われてきた。だが、それが単なる宣伝文句にすぎないことをぼくはよく知っていた。なぜなら、そのフレーズにふさわしい作品はレイナルド・アレナスの『めくるめく世界』だけだからである。

 多少誇張した面もあるにせよ、ひとつの文学作品に対して最大限の賛辞と言っていいだろう(ぼくが『百年の孤独』をまだ読んでいないことは内緒だ)。

 じっさいにこの本を読み終えたいま、ぼくはこの賛辞が単なるサービスではないことを実感している。この小説はまさに驚異的な傑作であり、おどろくべき想像力の結晶である。ていうか、めちゃくちゃおもしろいよ、この本。

 時は18世紀、メキシコの寒村に生を受け、長じて修道士となったセルバンド師を主人公にして物語はすすむ。

 このセルバンド師なる男性、一応、実在の人物である。かれの波乱万丈の人生に共鳴したアレナスは、その生涯を小説化するにあたって、ひとつの作品のなかに一人称、二人称、三人称を混在させるというとんでもない手法を採用した。

 ひとつの事実が三つの人称で別々に語られることもあれば、ある語りのなかでどんどん人称が入れ替わっていくこともある。しかも、異なる人称で綴られた事実が、相互に矛盾していることも少なくない。

 ある章で長々と語られたことが、次の章では平然となかったことになっていたりするのだ。そのため、読みすすめて行くほどに何が真実なのかわからなくなっていく。その酩酊感は強烈だ。

 こう書くと小むずかしい作品という印象を与えるかもしれないが、全然そんなことはない。ヨーロッパ中を経巡り、実在架空の怪人物たちと邂逅するセルバンド師の冒険は、奇想天外にして壮大無比、シンプルに冒険小説として読んでも十分におもしろい。

 たとえば、聖母マリアについて大胆きわまりない異説を唱えたためにメキシコを追放された師は、その移送の最中、空腹のあまり自分を縛る鉄鎖を食べつくし、自由になる。

 そこに海賊船の襲来が! 海中へ放り出されたセルバンド師は泳ぐこともできず沈んでいく(胃袋が鉄だらけだから)。ところが、天の助け、たまたまそこに巨鯨が通りかかり、師はその背にしがみついて大西洋を横断する――という調子で、一瞬たりとも飽きさせない。

 圧巻はセルバンド師が見る欧米諸国の描写。セルバンド師がヨーロッパを歴訪したことそのものは史実だが、そこに魔術的リアリズムの奔放な想像力が重ね合わされ、だれも見たことがない異形のヨーロッパが生み出されていく。

 たとえば、大スペインの王都マドリードを見てみよう。マドリードは頽廃の都、疫病と堕落の都である。その頽廃ぶりたるや、「皇帝ネロのローマでさえ、この堕落しきった市に比べれば、神や聖者の住み処ということになる」ほど。

 またマドリードでは極度に人口が密集しており、道路がすこぶる狭いため、人びとはからだを斜めにして歩かねばならない。

 したがって、こちらがある通りを歩いている時に向こうから歩いてくるひとがあれば、道端にしゃがむか、窓によじ登るか、あるいは地べたにうつぶせになり、背中の上を通ってもらう必要がある。だれがしゃがみ、だれがその上を通るかで刃傷沙汰になることもしばしば。

 また、道路の階段の踏み板も混雑していて、踏み板ごとにひと家族が住んでいるため、階段を昇るときにはひとを踏み潰すことになる。

 屋根のうえに住みついた連中もいて、そういうものたちは絶えず下に汚物やらなにやらを投げ落としている。町中は非常に不潔で、国王はこの状況をあらためるため、街中に便器を置いたが、少しも効果がない。

 そして、

 そういう生活だから、やたらに疫病がはやるし、人間もひどく醜くて正常な大きさに成長しない。あるとき身長が六十センチ足らずの女の子と遊んでいて、年はいくつかと尋ねたら、「あら、もう三十になるのよ」という答えが返ってきた。マドリードの市民は頭でっかちで、ちびで、おしゃべりで、尻が大きい、とよく言われる。彼らは数珠を作り、監獄を建てる。何もかも本当の話だ。

 嘘つけっ。マドリードの皆さん、どうもすいません。

 しかしまあ、狂っているのは決してスペインだけではない。イギリスのロンドンでは深い霧のため目の前を見通すことすらできない。アメリカでは絶えず乗客をふり落としながら汽車が荒野を走り抜けている。石炭が足りなくなると、黒人乗客を燃料にして走りつづけるのである!

 セルバンド師は行く先々で貧苦と窮乏に苦しみながら、このめくるめく世界を旅していく。リアリズム小説だったら何度死んでいるかわからないような目にあっても、そこはほら、魔術的リアリズムだから大丈夫。

 かれは何度となく囚人の身になりながら、そのたびに脱出してふたたび旅立つ。すごい、すごいぞ、セルバンド師! すごい、すごすぎるぞ、レイナルド・アレナス

 しかも、どんなに異常な出来事が起こっても、アウトラインでは史実を逸脱することはない。セルバンド師はその自伝に書かれてある通りに生き、そして死んで行く。死後の運命まで史実通りである。

 それどころか物語のなかには時折り自伝が引用され、虚構と現実はシームレスにつなぎ合わされる。さらにおどろくべきことには、作者のアレナス自身が、ほとんどこの小説の筋書きをなぞるような、流浪と入獄の人生を送ることになったのだという。

 ここに至って、このあまりにも奇想天外な物語は、アレナスの人生と接地する。セルバンド師に自分自身を見たアレナスは、図らずも自分自身の未来を小説のかたちで予言することになったのだ。

 世紀の奇書。とにかく桁外れの作品を読みたいという方にお奨め。