『偏愛文学館』

偏愛文学館??

偏愛文学館??

 悪い、後ろめたいと思いながらその悪いことをする。そうやって崩れていく自分を偽悪的に眺める。太宰はそんな演技を見事にやってのけました。その芸は今でも多くの人に受けているのではないかと思われます。自分の弱さを克服し、ボディビルで筋肉をつけるようにして弱さを覆い固めてしまった三島流よりも、弱さを露出してピエロを演じた太宰流が若い人には受けるということでしょうか。

 ブックガイドとはありがたいものである。

 いつか書いたように文化を山にたとえるなら、それは地図に相当する。我々より前にこの山に立ち入り、その隅々まで歩きまわり、山並みを調べつくした先人たちが遺した地図。

 概して山とはひとりで歩くには広すぎるものであり、迂闊に分け入れば遭難しかねない。殊に文学の山は広大無辺、とてもひとりで歩き切れるものではない。そこで先人が遺してくれた地図が必要になってくるわけだ。

 ま、ただあてもなく山々を迷い歩くことも一興ではありますが、人生は有限、あの本を読めばこの本は読めない、ということで、やはり精密な地図は便利なもの。

 そういう意味では、倉橋由美子の『偏愛文学館』は、まず一流の地図といっていいだろう。タイトルに「偏愛」と冠しているくらいだから、客観的なブックガイドとはいえない。

 そもそも倉橋は差別主義者である。彼女の目から見て二流の作品を小説とは認めない。ただ、認めないからといって面罵するわけではない。ただ冷ややかな軽蔑をこめて無視する。

 その厳正な審美眼に耐えるごく少数の作品が彼女にとっての小説であり、文学であり、この「文学館」にはそうした作品が収められている。

 したがって、これは、いかにも小さな文学館である。館主が並の人物であったら、だれもこんな館を訪れようとは思わないに違いない。しかし、館主はほかならぬ倉橋由美子であり、したがってこれは小さくとも無二の文学館なのである。

 各々のショーケースの前に掲げられたテンプレートには、冷ややかな知性を感じさせる皮肉な文章がならび、いくら読みすすめても飽きることはない。

 そもそも作品の選考基準からして独特の美学を感じさせる。漱石、鴎外、谷崎、太宰、三島、中島敦、それに澁澤龍彦あたりの作品は当然という感じで入っている。

 カフカモーム、オースティン、トーマス・マンなどの作品も、入っている。おもしろいのは、それに加えて、中国の志怪小説も入っていれば、岡本綺堂パトリシア・ハイスミス、そして宮部みゆきなどのミステリも採られていること。

 倉橋がミステリの論理性そのものを好んだとは思えないが、彼女にしてみれば、自分の審美眼にかなう文体と世界をそなえていれば、ミステリであっても立派な文学作品だったのだろう。

 逆に、世間でどれだけ賞揚されている作品だとしても、自分の目に合わなければ、小説ではなかった。なかなかつきあいづらそうな人物だが、その目はたしか。

 この一冊を読んだだけでも、彼女が何よりきらったのが、俗っぽいことであることがわかる。倉橋は、生涯、日本の私小説をきらっていたというが、それも無理はない。

 能舞台にも通じるような、神話的な超俗の世界こそ、彼女にとっての小説だったのだと思う。当然、倉橋よりはるかに軟弱なぼくは、もっとつまらない作品も読んでしまうわけだけれど、こういう姿勢には憧れもするのである。

 この文学館を完成して間もなく、作家倉橋由美子は亡くなった。享年、69歳。