ジャンルフィクションの魅力とは何か。


 書評サイトなのに、最近、エロゲのことしか書いていない気がする。何でこんなにエロゲにこだわるんだろ。

 昨日書いたように、エロゲが山であるとすらなら、その頂上は低くないと思う。頂上の作品群は、お金と時間を費やすにふさわしい逸品である。

 しかし、素晴らしい作品なら、ほかのジャンルにもある。なぜ、エロゲに特別の愛着を抱くのか。

 以前、ぼくがエロゲに求めるものは「ユニークさ」だと書いたことがある。常識を逸脱する作家性、独創性、衝撃性、そういうものだ。

 しかし、この言い草はどこか矛盾しているように思える。エロゲとはしょせんポルノであり、ポルノとは極度に類型化されたジャンルである。そんなに独創的なものを求めるのなら、文学作品でも読めば良いではないか。

 よく文学は自由であると言われる。何をやってもいいのだと。また、それに対して、ジャンルフィクションは型に嵌まっているとも言われる。

 これはじっさいそうだと思う。ジャンルフィクションとは「型」があるからジャンルフィクションなのであって、全く自由に発想したら、ジャンルフィクションの枠には収まらないはずだ。

 そしてある程度「型」があれば、本当に独創的な才能がないひとでもそれなりにおもしろいものが書ける可能性がある、これも事実。

 受け手の側から見れば、それはそこそこの品質が保証されているということでもある。SFしかり、ミステリしかり、少年漫画しかり、エロゲしかり。

 ここらへんの事情を、牧眞司は『世界文学ワンダーランド』のなかでこのように記している。

世界文学ワンダーランド

世界文学ワンダーランド

 ジャンル小説というのは、ファストフードやファミリーレストラン、あるいは腕が確かで人の好いシェフが切りもりをするビストロで食事をするようなもので、それぞれに満足の水準は保証されている。期待を激しく裏切るようなことは、皆無と言わないまでも、あまりない。心安らかに楽しめる。しかし、逆に「なんじゃ、こりゃあ」と吃驚仰天なんてこともない。もちろん、ときには「はじめての触感」みたいな嬉しいサプライズはあるだろう。しかし、思わず箸を落とす、あるいは箸を投げるなんてことはない。

 なるほど、と思う。巧い形容である。しかし、それでは、現実にジャンルフィクションで箸を落とす、どころか、テーブルをひっくり返したくなるような思いをしているぼくはどうなるのか。

 型通りのことしか描けないはずのジャンルフィクションが、時折り、とんでもないサプライズを生み出すのは何故なのか。

 グレッグ・イーガンの『順列都市』や、麻耶雄嵩の『夏と冬の奏鳴曲』、Otherwiseの『Sense Off』を体験したときのあの衝撃、あれは何だったのか。

順列都市〈上〉 (ハヤカワ文庫SF)

順列都市〈上〉 (ハヤカワ文庫SF)

順列都市〈下〉 (ハヤカワ文庫SF)

順列都市〈下〉 (ハヤカワ文庫SF)

夏と冬の奏鳴曲(ソナタ) (講談社文庫)

夏と冬の奏鳴曲(ソナタ) (講談社文庫)

Sense Off

Sense Off

 ぼくとしては、型通りであるからこそ、型を乗りこえることの衝撃があるのだ、と考えたい。

 本格ミステリを例にすればわかりやすい。このジャンルは、きわめて細かくパターン化されている。

 密室殺人、顔のない死体、ミッシング・リンク、絶海の孤島、なぞめいた洋館、ダイイング・メッセージ、そして名探偵とワトスン。おなじような素材が、くり返し、くり返し、用いられている。

 まさに「腕が確かで人の好いシェフが切りもりをするビストロ」そのもの。しかし、そのなかには、時折り衝撃的な傑作が存在する。それは実はパターンに縛られているからこそ起こる衝撃なのではないか。

 麻耶雄嵩『翼ある闇』の結末は衝撃的だが、それは一応、本格ミステリのお約束を遵守しているからこそ生まれる衝撃だ。最初から異次元の小説としてはじめたら、そこまでのインパクトはなかっただろう。

翼ある闇 メルカトル鮎最後の事件 (講談社文庫)

翼ある闇 メルカトル鮎最後の事件 (講談社文庫)

 そして、エロゲでも同じことがいえる。『月姫』を見てみよう。

月姫読本 Plus Period

月姫読本 Plus Period

 この物語には5人のヒロインが登場する。その内訳は、吸血鬼のお姫さま、高校の先輩、ツンデレ妹キャラ、双子のメイド、と、きわめて凡庸な類型的キャラクターばかり。ここだけ見たら、まさにエロゲオタク好みの、よくある萌え系のゲームとしか言いようがない。

 しかし、シナリオライター奈須きのこのオリジナリティが炸裂するのは、そこから先である。

 一見してありがちに見えたキャラクターたちは、話が先に進むにつれて、予想もしなかった素顔を見せはじめる。それこそたんなる類型に収まりきらない奈須きのこ個人の独自性といえる。

 同じ奈須きのこの『空の境界』は、『月姫』とは違って読者のことを考えず好き勝手に書いた作品だ。奈須本人がそう語っている。

空の境界 上 (講談社ノベルス)

空の境界 上 (講談社ノベルス)

空の境界 下 (講談社ノベルス)

空の境界 下 (講談社ノベルス)

 それにもかかわらず、作品としてのインパクトでは『月姫』のほうが上だと思う。一見類型的な設定を用いているからこそ、そこから逸脱する才能の存在を感じさせるのだ。

 「型」を用いることによって、「型」に収まりきらない凄みを感じさせる。最も優れたジャンルフィクションとは、そういうものなのではないか。

 しかし、往々にして、その型破りの部分は、じっさいに触れてみなければわからない。ここらへんが、ジャンルフィクションの名作が、なかなか正当な評価を受けない所以なのかもしれない。

 そのことは、『攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX』の神山健治監督が「押井守を模倣することをめざしたことによって、押井守との落差がはっきりした」という意味のことを語っていることにどこか通じている。

攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX 1 [DVD]

攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX 1 [DVD]

 テレビ版『攻殻機動隊』を製作するにあたって、神山監督は、押井監督が製作した劇場版『攻殻機動隊』を徹底的に模倣しようとしたという。

 つまり、押井守という「型」に作品を当てはめようとしたのである。しかし、結果的には、まさに押井守を模倣したからこそ、押井守との個性の違いが歴然とすることになった。

 真の個性、あるいは作家性とは、こういうものなのではないか。いくら消そうとしても、どうしようもなくにじみ出てしまうもの。

 ジャンルフィクションを代表する作り手たちは、だれにでも使える「型」を使って、かれらにしか作れないものを作り出す、そういう種類の才能のもち主だ、と思う。

 エロゲの話に戻ろう。エロゲの歴史のなかで、名作と呼ばれているものは、またぼくが個人的に傑作であると思うものは、一見していかにも類型的なものが少なくない。そして、そこを攻撃される。

 しかし、ぼくがおもしろいと思うものは、何かしらその類型を逸脱している。いわゆる「葉鍵系」のゲームにしてもそうだ。

 『To Heart』や『AIR』は「泣きゲー」と呼ばれ、その感動的なストーリーが見所であるといわれる。しかし、ぼくにしてみれば、いまさらその程度のセンチメンタリズムに浸れるほど純朴ではない。2次元の美少女がひとり死んだくらいのことで、流す涙はない。

To Heart リニューアルパッケージ

To Heart リニューアルパッケージ

AIR ~Standard Edition~

AIR ~Standard Edition~

 しかし、それにもかかわらず、やっぱり『AIR』は傑作だと感じる。なぜなら、そこには「泣きゲー」の類型に収まりきらないものがあるからだ。

 ぼくが『AIR』をプレイして憶える感動とは、その形容しがたい「何か」に触れた感触である。既存の言葉で語ろうにも巧く語れない、何か不気味なもの、背筋がぞくぞくするような感触。それが『AIR』の魅力だと思う。

 神尾観鈴はたしかにいかにもの「萌えキャラ」だ。幼い容貌、舌足らずの口調、奇妙な口癖、その他いろいろ。オタク受けする2次元白痴美少女キャラ。

 でも、同時に、観鈴の造形にはそんな類型には収まりきらない過剰さがあって、それがぼくを惹きつける。いや、言い訳じゃなくて、ほんとの話。たぶん、プレイしたひとならわかってもらえるだろう。あれは、変な作品である。

 もっとそんな変な作品をやりたい。それがぼくがエロゲをプレイする動機かな。