『新釈 走れメロス 他四篇』

新釈 走れメロス 他四篇

新釈 走れメロス 他四篇

 芽野史郎は激怒した。必ずかの邪知暴虐の長官を凹ませねばならぬと決意した。
 芽野はいわゆる阿呆学生である。汚い下宿で惰眠をむさぼり、落第を重ねて暮らしてきた。しかし厄介なことに、邪悪に対しては人一倍敏感であった。

 どんなに天才的な作家も、魔法使いではない以上、無から新作を生み出すことはできない。

 むしろかれらは錬金術師である。過去の作品からさまざまなエッセンスを取り出しては混ぜ合わせ、さらに自分自身の個性を加えて、新しい作品を生み出してしまう。

 そんな現代の錬金術師たちも、森見登美彦の腕前には瞠目することだろう。何しろ、森見は「山月記」、「藪の中」、「走れメロス」、「桜の森の満開の下」、「百物語」という日本文学史上の名作を土台にして、全く新しい作品を生み出してしまったのだから。

 中島敦やら芥川龍之介といった、今日ではほとんど伝説的な文豪たちの作品も、森見の手にかかると、とんでもない怪作に姿を変えることになる。

 思え、世に出ずして詩作に没頭した挙句に虎と化した男を描いた「山月記」が、ろくに授業にも出ず超大作の執筆に励む留年学生の話に変わるさまを。

 思え、親友を救うため必死に走りまわる青年メロスの葛藤を綴った「走れメロス」が、あっさり友情を裏切って京都中を逃げまわるろくでなし学生の話に成り果てる姿を。

 それらの作品はいずれも原作に対する鋭い批評になっている、ような気もするが良くわからない。たしかにいえることは、こういう作品を生み出してしまう森見がただ者ではないということである。

 いったいあの悲愴な「山月記」のどこをどういじったらこんな小説が生まれてしまうのか、凡人には測りがたい。中島敦が読んだら何というやら。

 それぞれの作品は一本ずつきちんと完結しているが、「山月記」の主人公斎藤秀太郎をはじめとして、何人かの登場人物は共通している。

 この一冊を読み終わる頃には、読者の頭のなかに天狗が徘徊し、図書館警察が跋扈する異形の京都が出来上がっているだろう。

 いずれも荒唐無稽な物語であることは共通しているが、収録作の中身はバラエティに富んでいる。

 個人的な好みでは甘く切ない「桜の森の満開の下」をベストに推したい。「走れメロス」の失踪感も捨てがたいが、この作品には何か不思議な淋しさのようなものが漂っていて、切ない読後感をのこす。

 その淋しさの正体は何なのだろう。たぶん、時とともに過ぎ去り、消えていくものへの哀切な思いなのだと思う。

 それは森見作品の特色である狂騒的な文体と表裏一体である。祭りの騒ぎが激しければ激しいほど、それが終わったあとに訪れる淋しさもまた深いのだから。

 森見はデビュー作から一貫して学生を主人公にした物語を綴っている。しかし、モラトリアムはいつかは終わり、その果てにははてしない日常が待ち受けている。

 そのとき、ひとは、成功して大作家になるにせよ、失敗して天狗に変化するにせよ、以前とは違う自分を見出さざるをえない。以前の生活へのやるせない懐かしさが胸を刺す瞬間である。

 これほど狂騒的でありながら、森見作品がなんともいえない切なさをただよわせている秘密は、たぶんそこらへんにある。

 それこそ、名作を模倣しても消えない、森見登美彦の個性である。