「萌え」と幼児性愛に境界線は引けるか。

「萌え」って健康的でいいじゃん!という人は、たとえば、この本の表紙を見てみよう。

萌え経済学

萌え経済学



これは著名な経済評論家、森永卓郎による本である。どうして表紙の少女のスカートが不自然にめくれあがって、白い下着と見紛うものが見えているのか。ここにあるものこそが、「萌え」の裏面にあるロリコンペドフィリアの心性であり、その事実はほぼ誰でも知っているはずなのに、マスメディアの場ではみんなでよってたかって、そんなものはないことにしているところのものなのである。
 

 さて、ぼくとしては多少違和感を感じざるを得ない記事です。

 ある種の「萌え絵」あるいは「キャラ絵」*1を見て、そこに「ロリコンペドフィリア的心性」を見て取ってしまうことはよくわかります。

 たしかに、こういった絵柄は、十代前半の少女たちがアイドルとして「消費」されている現状とシンクロしており、日本社会の「ロリコン化」を象徴しているようにも思われます。

 このような状況は良識的な大人の警戒感をあおって当然でしょう。そして、しばしばいかにももっともらしい解釈が付け加えられるわけです。

 曰く、精神的に未熟な日本人男性は、いまや同年代の女性とまともに向き合えなくなった。そうした弱弱しい心を抱えたかれらは、幼い少女に救いを求める。十代前半のアイドル少女たちや、ロリコンゲームはその端的な証拠である。証明終了。

 ここでぼくは我が身を振りかえって考えこまざるをえなくなります。さて、自分のなかには「ロリコンペドフィリア的な心性」があるのだろうか?

 まあ、ないと思うわけですが。うん、ないでしょう。他人のことは知らないけれど、少なくともぼくにはない。いや、たぶん萌えオタ全体を見まわしても、そういうひとのほうが多数を占めると思う。

 夏冬のコミケに集まる十数万の男性、あれが皆、「ロリコンペドフィリア的な心性」を抱えているとは考えづらいですから。

 この発言には注釈が必要でしょう。たぶん、こんなふうに考える方もいらっしゃると思います。

 何を言っていやがる、十代前半にしか見えないような、あるいはもっと幼く見えるような少女に「萌える」行為は、それだけで十分ロリコン的じゃないか、と。

 お説ごもっとも。でも、やっぱり絵と生身の人間には落差がある。ぼくはその気になれば『苺ましまろ』や『おとぎ銃士赤ずきん』のエロパロ同人誌で自慰できるだろうけれど、幼女のヌード写真に欲情したりはしない。

苺ましまろ(1) (電撃コミックス)

苺ましまろ(1) (電撃コミックス)

 一種の背徳的な好奇心があることは否定しないけれど、まあ、性欲は感じないですね。

 だから、少なくともあるひとがあるイラストレーションに「萌え」たからといって、すぐに幼女性愛者とか、その候補だと考えることは無理がある。

 やっぱり「キャラ絵」と生身の人間のあいだには暗い深淵があるのです。

 それでは、幼女性愛者でもないくせに、なぜ幼女の絵に「萌え」るのか。これは、正直、自分でもはっきりとはわからない。

 ただ、その結論を急ぐ前に少し考えてみたいと思います。そもそもこの表紙は、本当に幼児を描いているのでしょうか。

 一目瞭然じゃないか、と思われる方も、少し考えてみてください。このイラストはお世辞にも写実的なタッチではなく、じっさいの人間の姿かたちを大幅に誇張しています。それにもかかわらず、一見して幼女と感じられるとすれば、なぜか。

 すぐに思い浮かぶのは顔立ちと頭身のことです。この少女(?)は幼くあどけない顔立ちをしています。そして、四頭身か五頭身くらいの体形です。たぶん、だから、一見して幼児に見えるのでしょう。

 しかし、この種の「萌え絵」の顔立ちはある意味、人間離れしたものです。瞳や髪の色もふくめて、現実の子供そのままではありません。だから、仮にこの顔立ちそのままでも、体形が成人のものならやはり幼児には見えないのではないでしょうか。

 結局、もしぼく達がキャラクターを幼児だと感じるとすれば、それは体形が幼児に近いからという理由が最も大きいように思います。ようするにスタイルが四頭身だから幼児を連想するのではないでしょうか。

 ところで、漫画やアニメでは、外見上は子供のように見えても、設定上は大人だということがしばしばあります。

 何も「萌え絵」に限ったことではありません。たとえば、羽海野チカハチミツとクローバー』のヒロイン、はぐ(花本はぐみ)は、その頭身から判断すれば子供にしか見えませんが、設定上は美大生です。

ハチミツとクローバー 1 (クイーンズコミックス)

ハチミツとクローバー 1 (クイーンズコミックス)

 物語の後半では21,2歳くらいにはなっているはず。それでも、最後まではぐの外見は変わらない。純粋にキャラクターデザインだけを見て判断すれば、彼女のことを子供と思いこむひとがいてもおかしくないでしょう。

 さて、この作品は映画化されているのですが、映画版で映画ではぐを演じた女優さんはきちんと大人の女性に見えます。じっさいに大人の女性なのだからあたりまえですね(ただし、映画そのものは未見。パッケージの印象です)。

 しかし、と、ここで考えてみましょう。仮に彼女の頭身が子供並みだったとしたら、ぼく達は彼女を子供と見誤る可能性があるでしょうか?

 まさか、そんなことはないでしょう。ひとは、生身の人間があいてなら、どんなに頭身が低くても、大人と子供を見誤ったりしないものです。

 『ロード・オブ・ザ・リング』のホビットたちを見てみましょう。かれらはほぼ人間の子供並みの身長、頭身です。それでも、だれもがひと目見てかれらが子供ではないことを見て取ることができます。顔立ちが子供のものではないからです。

ロード・オブ・ザ・リング [DVD]

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 フロドにしても、サムにしても、体形は人間の子供並みですが、大人の顔をしています。もし、これらのホビットを子供が演じていたとしたら、観るひとは違和感を抱いたでしょう。ただの人間の子供じゃないか、と。

 しかし、これが「キャラ絵」となると、ホビットと子供を区別することはそう簡単ではなくなります。下の本を見てください。竹本泉の『コオニライフ』という作品です。

 さて、この少女が、ただの子供か、それとも頭身の低い大人なのか、わかるでしょうか。実は半分だけ小人(か何か。背の低い種族)の血を引いている娘で、身長から想像される歳より年上なのですが、そんなこと、わかるわけないですね。

 それどころか、あらかじめ聞いていなければ性別さえはっきり区別できないと思う。しかし、これは描き手が未熟だとか、稚拙だとか、そういうことではないでしょう。

 ぼく達は、生身の人間があいてなら大人と子供を、身長や体型によらず判別できるが、「キャラ絵」があいてではかならずしもそうはいかないということです。

 ここにはリアルな人間と「キャラ絵」の決定的な落差があります。ようするに「キャラ絵」とは、しばしば「子供」と「子供と同じくらいの身長の大人」を区別できないような絵柄なのです。

 そんなことは些細なことだ、と仰る方もあるでしょう。作品内での設定がどうあれ、その絵が「幼児に見える」とすれば、それは幼児と同じことだ。その絵に対して性的な欲求を抱くとすれば、それはやはり「ロリコンペドフィリア的な心性」なのだ、と。

 しかし、ここで問題なのは、その「幼児に見える」ということが、具体的にどういうことなのか、ということです。

 「キャラ絵」は決して写実的に幼児を模写しているわけではありません。「幼児に見える」とは、ただそれを観賞するぼくたちが幼児を連想し、幼児を描いたものと認識してその絵を見るということだと思います。

 そして、「キャラ絵」は、実にたやすくその連想をもたらしてしまう。はっきりしない理屈で申し訳ありませんが、どうもここらへんで「萌え」と「ロリコンペドフィリア的な心性」は分かたれているのではないかという気がします。

 ただ、ぼくは「萌え文化」と「ロリコンペドファイルの心性」が全く無関係だとは思いません。あきからに関係しています。

 しかし、この種の絵柄を好むというだけのことで、即座にそこに幼児性愛性を見て取ることは、どうしても無理があるでしょう。何しろ、この業界には、女性のファンやクリエイターも大勢いるのですから。

 また、ぼくはべつに「萌え」は健康的だ、などと主張するつもりはありません。性と無縁だとも思わない。そんなことはありえない。しかし、だから下らないとも思いません。

 たぶん、「こんなもの、キモイことはわかっていますよ」という立場を取るほうが安全だろうし、きっと「イタくない」のでしょう。

 でも、その道は往かない。ある文化の価値は「健康的」であることだけではないはずです。「頽廃芸術」を攻撃した独裁者ではあるまいし、ある文化が汚濁にまみれていることと、素晴らしいものであることを、分けて考える必要はないでしょう。

 「萌え絵」、あるいは「キャラ絵」そのものが良いか悪いか、そういうことは言えません。しかし、それを活用した傑作が存在することは知っているし、さしあたり、ぼくにはそれで十分です。

 ひどく穢れて、なお美しい、そういう文化もあると思います。ここにある、と思っています。

*1:人物を「キャラ化」した絵、程度の意味。