SF小説が売れないわけ。


 一昨日の記事を書くために、久しぶりに梅原克文さんの文章を読み返してみたのだが、いや、支離滅裂だなあ。

 あれだけおもしろい小説を書けるひとが、なぜSFの話となるとここまで没論理的になってしまうのだろう(小説もわりと無茶な話ではあるが)。

 20年後を見据えた計画だの何だのという気宇壮大なハッタリもいまはむなしい。ほんと、このひと、どこへ行っちゃったんだろうね?

 さて、ここで梅原さんは既存のSFを、「大衆娯楽小説」と「超メタ言語的な小説」に分けている。

 「超メタ言語的な小説」とは、梅原さんの造語で、「あまりにも現実味がなさすぎる小説」のことだという。

 かれは書く。

 そして、今のSFMを読んでいると、この手の「超メタ言語的作品」ばかりが目立つのだ。説得力もリアリティーもない設定や小道具や人物が、何の前置きもなく、いきなり登場してくるではないか。
 そして、大衆読者がこの手の「超メタ言語的作品」を嫌うことは、もう実証済みだ。この手の作品を、現代SFなどと主張しているうちに、いつの間にか大衆読者は、SFの二文字をまったく信用しなくなったのだから。
 では、元祖サイエンス・フィクション作家のヴェルヌとウエルズの作品を検証してみよう。彼らが、このような「超メタ言語的作品」を書いただろうか?
 否だ!
 それどころか、ヴェルヌとウエルズは、荒唐無稽な物語に大衆読者を引きずり込むため、細心の注意を払っているのだ。設定や小道具や人物にリアリティーと説得力を持たせることに、多大なエネルギーを費やしているのだ。そして、個々の文章と現実との「一対一の対応関係」を守り抜いているのだ。

 何でこんなに鼻息が荒いんだろ、このひと。

 とはいえ、いいたいことはわからなくはない。

 ここで「超メタ言語的作品」を書く作家として名指しされているのは、神林長平大原まり子である。

 かれらの作品には、たしかに、ウェルヌや、ウエルズや、クーンツや、マイケル・クライトンの作品が備えているようなリアリティを備えていないものが多い。

 それどころか、さまざまな点で娯楽小説のパターンを踏み外した作品も少なくない。

 大原まり子に『未来視たち』という連作短編集がある(余談だが、漫画『封神演義』のサブタイトル「未来視たちのディアレクティーク」はたぶんこの作品から採られている)。

未来視たち (ハヤカワ文庫JA)

未来視たち (ハヤカワ文庫JA)

封神演義 3 (ジャンプコミックス)

封神演義 3 (ジャンプコミックス)

 大原まり子の一連の未来史ものに属する作品で、全5作の短篇から成立している。

 カバー裏のあらすじを抜き出すと、こんな話である。

辺境星系政府や大企業などの組織にとって、念動、テレパス、未来予測が行なえる超能力者は工作員として貴重な存在だ。強力な超能力者・大シノハラはその需要に応え、超能力者集団シノハラ・コンツェルンを築き上げた。超能力者のクローンで維持される巨大情報管理組織である。そのなかで7人めのクローン・シンクは冷酷な兄たちとなじまず、シノハラ家の宿敵コザイ家の少女と共に組織を離れ、時空を超えて逃亡を続ける!

 おお、なかなか波乱万丈なSF活劇が想像されるじゃありませんか。ところが、大原まり子は一筋縄ではいかないんだな。

 これだけを読むと1冊かけて壮大な逃亡劇が繰り広げられるように見えるでしょ。でも、じっさいには第1作目で逃げだしたシンクは、第2作目で捕まるのである(笑)。はやっ。シンク、捕まるの、はやっ。

 で、兄たちに超能力で洗脳されて一巻の終わり。超能力バトルも何もあったものじゃない。

 第3作目ではなぜか話は幾千年前の現代日本へ飛び、第4作目では独裁者大シノハラと洗脳されたシンクの関係を描く。そして第5作目に至っては、シンクはただの脇役(というか悪役)に成り果てる。

 もちろん、それぞれ独立した短篇として発表された作品だから、一本の長編のように筋道だっていないことは仕方ない、ということもできる。

 しかし、ふつうの娯楽小説なら、「逃げ出したシンクはこれからどうなるのだろう?」「シノハラ家とどんな戦いを繰り広げるのだろうか?」という読者の興味をここまであからさまに無視したりしないだろう*1

 たぶん、こういう小説は、ふつうの娯楽小説を読みなれたひとには非常に読みづらいものなのだと思う。何しろ、一寸先の話がどこへ飛んでいくのか、さっぱり見えてこないのだから。

 よくも悪くも、一般的な娯楽小説とは、物語の構成の仕方が異なっているのである。

 ここで、梅原氏のように、だからこういう小説は娯楽作品としてだめなのだ、と切り捨ててしまうことはたやすい。

 しかし、じっさいにはどこまでが大衆向けで、どこからがそうではないのか、線を引くことはむずかしいだろう。

 大原まり子の作品が「超メタ言語的」であるとするなら、上遠野浩平の作品だってそうなのではないか?

 しかし、現実に上遠野の作品はヒットしたではないか?

 いわゆる「セカイ系」といわれている作品で、地に足のついたリアリティがあるものがどれだけあるだろうか?

ブギーポップは笑わない (電撃文庫 (0231))

ブギーポップは笑わない (電撃文庫 (0231))

 すべては紙一重の話なのだ。

 ディーン・クーンツの『ベストセラー小説の書き方』には、お手本として何人かのSF作家の名前があげられている。

ベストセラー小説の書き方 (朝日文庫)

ベストセラー小説の書き方 (朝日文庫)

 そこで偉大な先達として語られている作家のほとんどは、日本では「SFマニアしか読まない」と思われているような作家だったりする。

 日本で「マニアック」と思われている作家の何割かは、本国ではかならずしもそう見られていないのかもしれない。

 こういうことは少なくない。

 たとえば、テリー・プラチェットの『ディスクワールド騒動記』というシリーズは、角川文庫から第1巻だけ出て、その後、続編が途絶えた。売れなかったらしい(現在、このシリーズは鳥影社からハードカバーで出ている)。

 ま、むりもない。とにかくひねくれたユーモア小説なのだ。

 ところが、このプラチェット、本国では大ベストセラー作家らしいのである。イギリス人のユーモアセンスはわからないよなあ。

 何が大衆的で、何が大衆的でないのか、その本は売れるのか売れないのか、そう簡単にわかったら苦労はしないというお話。

*1:ちなみに、それぞれの短篇は第5作目→第1作目→第3作目→第2作目→第4目の順番で発表されている。つまり、もともと作中の時系列を無視して書かれた作品を、時系列順に並べなおした作品集ということもできる。そういう意味では、この本における順番でもって「第×作目」と呼ぶこと自体、ナンセンスといえばナンセンスである。しかしまあ、いずれにしろ、一冊の本としてはめずらしい構成というべきであろう。