奇跡の果てには。


 さて、ぼくは以前、小説を読むこととは「他者」との出逢いであると書いた。

 その「他者」とは、自分とは異なる心、異なる感性、異なる価値観をそなえているために、決して自分の思い通りにはならず、そのためにこそ強くひとを惹きつけるものである、と述べた。

 しかし、真に並外れた才能は、時折り、奇跡を起こすことがある。

 かれの作品を読むひとに、これこそ自分の理想そのものだ、まるで自分の頭のなかを覗いて組み立てたかのようだ、と思わせてしまうのだ。

 そのとき、彼我のあいだの壁は消え失せ、読者は作品と一体化して、夢のようなひと時を過ごす。

 それは、どこか、運命の恋に似ているかもしれない。決して手がとどかないはずの、自分でも漠然と思っていたにすぎぬ理想の存在が、目の前に形をともなってある奇跡。

 何百冊、何千冊を読み通してもそうめったには出逢えぬ至福の瞬間である。

 ただ、奇跡は永遠には続かない。シンデレラの夢は、十二時の鐘の音とともに崩れ去る。

 ある作家が、自分の理想そのものだという思いは、幸福な錯覚ではあるにしろ、やはり錯覚には違いないのだ。

 長く読みつづけていれば、どんなに天才的な作家も、やがては「他者」としての顔を見せはじめる。

 自分の期待とは違う側面を見せ、自分がそうしてほしいと思わない方向へ物語の舵を取る。

 それは、その作家もまた読者とはべつの人間である以上、仕方のないことである。シンデレラの魔法は永遠には続かない。

 しかし、運命の恋、と信じたものに破れた者が、時にそのことを恨みつづけるように、奇跡の作品に出逢ったものは、それが期待を裏切ったことそのものを恨むことがある。

 それまでのその作品が理想通りであればあるほど、そのとき生じる憎しみは強い。

 なぜ、自分を裏切ったのだ、とかれはいうだろう。あれほど期待させておいて、その期待を叶えないとは何事だ、と。

 本当は、裏切るも何もない、ただその作り手は自分の道を行ったに過ぎないのだが、奇跡の体験を経た読者はそのことを認めようとしない。

 だから、あの作家は、作品はもう変わり果ててしまった、昔は良かったが今はもう駄目だ、と吐き捨てるのである。

 小説ではないが、たぶん、何年か前、『新世紀エヴァンゲリオン』が起こした現象もそういうことだったのだろう。

 自分の理想そのもののような、ありえるとも思えなかった傑作。しかし、そうであるからこそ、それが期待を裏切ったときには、激しい憤りが生まれる。

 あの作品の熱烈なファンは、作品と一体化するかのような、夢のような体験のあと、あっさりと拒絶されたのだ。おれはお前ではない、おれはお前のためにあるわけではない、と。

 そりゃあ、騒ぎにもなるだろうさ。夢が鮮烈であればあるほど、目ざめの失望もまた大きいのだから。

 とはいえ、それこそ自分の思い通りにならない真の現実と出逢えるチャンスだったのではないだろうか。

 そうやって、ぼくらは、少しずつ大人になっていく。

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