エンタメ原理主義の落とし穴


 メールがとどきました。

SFファンとラノベファンがケンカしてます。

http://d.hatena.ne.jp/FXMC/20070224/p1

 本文これだけ。それできみはぼくに何を求めているんだね?という内容ですが、まあ、口を挟めといっているんだろうから、挟んでみましょう。

 長くなりますが、上記の日記から引用させていただきます。

 早川・創元の誰がみても文句なくSFと認めるであろう海外SFだけで50冊ぐらいは持っていますし、SF作品が嫌いとかいうわけでもないのですが、日本国内のSFというジャンルの有り様は心底軽蔑しているんですよね。

 SF考証がどうこうとかSFマインドがどうこうとか不思議な単語を持ち出して「ガンダムSF論争」とかでロボットアニメとかと決別したはずなのに、SFというジャンルが過去の遺物となってからは、そういう過去の清算もしないままに、星雲賞とかで売れた作品を無理矢理SFと決め付けてつまみ食いしてみたりする姿勢の卑しさを。放漫経営で会社を潰しかけて、追い出した息子に援助をねだる老社長みたい。その売れた作品が生み出される影にある無数の駄作を賄ってきた、そのジャンル固有の事情とかは一切無視して成果だけを掠め取るつもりですか?

 書店で見かけた本の帯で大森望ライトノベルをどうこうとか言っていたのが腹立たしくて一言。

 SF屋ごときがライトノベルを語るな。おまえは早川で3000部しか売れない海外SFでも訳してろ。

 んー。SFがどうこう、ライトノベルがどうこうという前に、根本的に論旨が破綻していないですか?

 まず、この文章のなかから、「日本国内のSFというジャンルの有り様」とされているものを箇条書きで抜き出してみましょう。

・SF考証がどうこうとかSFマインドがどうこうとか不思議な単語を持ち出す。
・「ガンダムSF論争」とかでロボットアニメとかと決別した。
星雲賞とかで売れた作品を無理矢理SFと決め付けてつまみ食いしてみたりする。
・その売れた作品が生み出される影にある無数の駄作を賄ってきた、そのジャンル固有の事情とかは一切無視して成果だけを掠め取る。

 これらのことがすべて大森さんの責任なら、なるほど、「ライトノベルに手を出すな」といわれても仕方ないかもしれません。でも、これ、それぞれ、まったく主語が違う問題ですよね?

 まず、大森さんは「SFマインド」なんて言葉をめったに使用しません。むしろ、「センス・オブ・ワンダー」ということばを使う印象があります。

 まあ、もちろん、かれの発言をすべてチェックしているわけではないから、絶対に使っていないという保障はありません。

 ただ、少なくともやたらめったらにSFの価値観をふりかざしてほかのジャンルの作品を否定しているひとではない。

 それでは、「ガンダムSF論争」はどうか?

 これは1980年ごろ、「『機動戦士ガンダム』はSFであるかどうか」を巡って、作家の高千穂遥などがくりひろげた論争です(ここを参照)。

 インターネットもないころのことですから、当然、大森さんは参戦していません。

 星雲賞は?

 これはその年の日本SF大会で投票によって決められるものです。

 ひょっとしたら、大森さんも参加しているかもしれませんが、少なくともかれの一存で決定されているわけではありません。何百人かの参加者のひとりです。

 また、たしかに星雲賞では、しばしば『カードキャプターさくら』とか『ガンパレードマーチ』など、「SFらしくない」作品が受賞することがあります。

 このことにかんしては賛否両論あるでしょう。しかし、これを「売れた作品を無理矢理SFと決めつけて」いるのだ、と見るのは邪推が過ぎます。

 大抵のSFファンは、SF以外の作品も読んでいるのです。自分の好きな作品をSFの賞に投票したとしても、何もおかしくはありません。

 最後の「そのジャンルの成果だけを掠め取っている」という意見は、何の具体的な根拠もない話ですから、無視していいでしょう。

 つまり、仮にこれらのことに問題があるにせよ、いずれも大森さん個人の責任ではありえないのです。

 「ガンダムSF論争」なんてものがあったとき、大森さんはまだ学生ですよ? 何で高千穂さんが起こした論争のことで大森さんがののしられなければならないのでしょうか。

 たとえば二階堂黎人さんが失言したからといって、綾辻行人さんを責めるひとはいませんよね? あたりまえです。別人なんだから。

 結局、あるひとつの思想をいただく一枚板の「SF屋」だの「SFファン」なんてものは、現実には存在しないのです。

 なるほど、SFファンのなかには非常識なひとも、頑固な原理主義者もいるでしょう。そういうひとの存在が、SF小説の発展に対してマイナスに作用したということもあるでしょう。

 しかし、だからといってSFの読者や関係者を十把一絡にして罵倒していい、ということにはなりません。

 それは一部のライトノベルファンの言動を取り上げてライトノベルファン全体を攻撃できないのと全く同じことです。

 この記事には続編が存在します。そこではSFファンの特性として、次のようなことが挙げられています。

・他のジャンルに対する選民思想(なにしろ21世紀のブンガクだそうですから)
・物理法則がどうこうというエンターテイメントとしては些事でしかない部分への固執
・いざSF業界外に何か説明しなければならないとなると「SFマインド」とかいう不思議フレーズを持ち出してしまう説明能力の貧弱さ(SF界隈には「SF評論」などというものが熱心に行われていたそうだが、この一事を持って「その中身は空っぽであった」と断言してしまえると思う。と、同時に、これは将来的にライトノベル評論と称するものの空っぽさの証明にもなりうる)
――よーするに、SFという業界の持つ非常に内向きのベクトルと、対外的な「サービス精神」の貧弱さが、外部からの不信と反発をかったということです。

 これに対していちいち反論はしません。「そういうひともいるよね」という次元の話です。

 それよりも、ぼくはこの記事を読んで、ひとりの人物の名前を思い出しました。そのひとの名前は梅原克文

 何年か前に「SFはもう死んだから、これからはサイファイで行こう」といいだし、賛同を得られぬままにどこかへ消えていった作家です。

 詳しくはここを参照していただきたいのですが、たとえばこんなことを述べています。

 現在、ほとんどの出版社が「SF」の二文字を嫌っている。いや、それ以前に大衆読者が「SF」の二文字を嫌っている。
 最大の問題は、SF関係者たちが「SF」の「シニフィエ、記号内容」を二種類の意味で、無原則に使い分けてしまう点だ。つまり、ある時は「大衆娯楽小説」を「SF」と呼び、ある時は「マニアックで大衆受けしない小説」を「現代SF」と呼ぶのである。これでは大衆からの信頼を失い、ブランドの地位から滑り落ちるのは理の当然だ。

 ここにあるものは、「大衆娯楽小説」と「マニアックで大衆受けしない小説」は完全に別物であり、厳密に区別されなければならない、という思想です。エンタメ原理主義といってもいい。

 こういう考え方をするひとから見れば、たとえばジーン・ウルフやサミュエル・R・ディレイニーの難解な作品をありがたがる人間は、娯楽のなんたるかをわからない文学かぶれに見えるのかもしれません。

 それ自体は、むろん、悪くない。問題は、往々にしてその「文学」やら「文学かぶれ」の中身をろくに検討もせず、偏見と憶測だけで語ってしまうことです。

 これは、結局、「幼稚なラノベなんかをありがたがりやがって。もっと過去の文学作品を読め!」という態度をそっくりそのまま裏返したものに過ぎません。

 これを梅原克文コンプレックスと命名することにしましょう。こういう陥穽に陥ってしまったひとは、とりあえず「今日の早川さん」でも読むといいかもしれません。

 おもしろいよ?

 付記。

 それでは、このひとの考え方はどこで間違えているのでしょうか。

 ここでは、作家の山本弘氏の文章を引いて、ぼくの考えに変えたいと思います(この文章を引用したからといって、山本氏の文章のこの部分以外のところにも賛同するということではありません。念のため)。

「中国人は日本人が嫌いだ」

 と言う人がよくいる。もちろん、日本人を嫌っている中国人が多いのは事実である。だが、嫌っていない中国人も多いのだ。
「中国人は○○だ」「日本人は××だ」という時、それは実際には「一部の中国人は」「一部の日本人は」という意味なのである。ある集団に属する人間がすべて同じ信条、同じ性格、同じ嗜好の持ち主であることなどありえないからだ。
 ところが僕らは「一部の」という言葉が省略されていることを、ついつい忘れてしまう。「中国人は」「日本人は」というと、すべての中国人や日本人を指すと、自動的に思ってしまう。

「最近の子供は荒れている」
「日本人はマナーが悪くなった」
「女は時間にルーズだ」

 こういう言い方はみんな間違いなのだ。「一部の」という言葉が省略されていることに気がついていない。
 省略することで世界の見方は単純になる。世界を理解しやすくなる。しかし、理解しやすくなったからといって、その理解が正しいわけでは決してない。
「一部の」の省略が偏見の原因である。自分の知っている何人かの女性が時間にルーズだからと言って、「女は時間にルーズだ」と言ってしまう。
 それは人間の多様性を否定する。一人一人の人間が個性をもち、様々な人生を送っていることを忘れさせてしまう。個性に欠けた一様な集団であるかのように錯覚させる。

 ぼくの言葉でいいかえると、「個」と「全体」が区別できない、ということになります。

 ある集団のなかに、ある特定の性質をもった「個」を発見すると、その集団の「全体」が同じ性質をもっていると信じてしまうということ。

 この場合で言えば、ひとりふたり頭の固いSF関係者を見つけたために、SF関係者全体がそうだと思い込んでしまった、ということになるでしょうか。

 ようするに、「あるSF関係者」と「SF関係者全体」、「あるSF評論」と「SF評論全体」が区別できていないのです。

 ばかばかしいことのようですが、現実にこういう考え方をするひとは多い。そして、この種の考え方が深刻な性差別やら人種差別の温床になっているのです。

 いいけどね、べつに。