作家は自動販売機ではないし、ぼくは世界の王様ではない。


 きょうは何も本を読んでいないので、書くことがない。そこで、ぼくの書評の基準について話しておこう。

 この「Something Orange」は書評ウェブログである。時々ほかの話題も混じるが、基本的には書評がメインコンテンツだと思っている。

 また、各作品にから★★★★★までのポイントを割り振り、評価してもいる。

 このような態度を生意気だと思うひともいるだろう。いったいお前は何の根拠があってそのように評価しているのか、と。

 たしかに、こういうやり方は、いかにも傲慢だし、不遜である。そのことは自覚している。

 しかし、いざ利用者の立場に立ってみれば、はっきりとわかる基準で評価してあるほうが使いやすいはずだ。ぼく自身がほかの書評サイトを利用するとき、そう感じる。

 もちろん、評価に際しては、ぼくなりの基準がある。ただ、その基準がどれだけのひとを納得させることができるのか、それは未知数というしかない。

 ときには言葉遣いが辛辣になる(というか、する)こともあるだろうし、その文章を読んで不快に感じるひとも少なくないだろう。

 それでは、このような行為は、その作品の作家やファンに対して失礼だから、すぐに止めるべきなのだろうか?

 そうは思わない。第一に、そもそも一素人がプロフェッショナルの作品を論じることじたい、不遜な行為なのである。見かけだけ繕ってみたところでどうにもならない。

 第二に、もし良くないと思ったら正直にそう書くことことこそが、作品に対して最も誠実な態度なのではないだろうか。

 そもそも、作家はぼく個人を楽しませるために作品を書いているわけではない。

 どんな作家の目にも、ぼくの存在は入っていない。作家が意識できるのは、せいぜい不特定多数の読者の、漠然とした存在感だけである。

 だから、仮にぼくがその作品を楽しめなかったとしても、作家の罪ではない。作家はぼくが少しも楽しめない作品を書いてもいいのである。

 もちろん、だからといって、ぼくがそういう作品を賞賛しなければいけない理由もない。退屈な出来だと感じたら、正直にそう書くだろう。

 作家は書くべきものを書き、読者は読みたいように読む。それが作家と読者の関係のいちばん健全な形だと思う。

 ある作家に向けて、自分の思うような形にとどまれ、と要求することはばかげている。

 作家は自動販売機ではない。ぼくとはべつの個性をもった人間であり、だからこそ、ぼくらを感動させることもできるのだ。

 仮に、ぼくが世界の王様だとしよう。絶対権力のもち主であり、好きな作家に命じて好みの作品を書かせることができるとしよう。

 そのとき、新作を読んで失望することはなくなるかもしれない。すべてがぼくの好みに合わせて作られているのだから。

 しかし、そこにはあたらしい個性との出逢いもなくなるだろう。ようするにその関係には「他者」がいないのだ。その場合、作家は読者の影であるに過ぎない。

 森岡正博は著書『生命学に何ができるか』で、「他者」の存在についてこう書いている。

 「自分が会いたくないような人間に出会う」ことや、「自分が経験したくないような出来事がおきる」ことは、レヴィナスが言うところの〈他者の到来〉を意味している。〈他者の到来〉とは、まったく思いもかけないものごとが、思いもかけないような形で、私に何かの返答を迫るような勢いで、私を襲ってくることである。〈他者の到来〉を受け止めるときの実存感覚が、第二章で私が述べた他者論的リアリティであり、〈揺らぐ私〉のリアリティである。すなわち、他者がやってきて、私を襲い、いままで確かなものだと思っていた様々なものごとを、揺るがせ、私をはげしい動揺に追いやっていく。そして私は謎に直面し、頼るものを失い、見たくないものに直面させられ、おろおろし、それをきっかけとしてみずからの生命観や人生観を変容させていく。このような〈揺らぐ私〉のリアリティを出発点として、私は、思いもよらなかった何者かと出会っていくことができる。

 これこそ、ぼくが求める出逢いである。その本をひらくまでは思いもよらなかった何者かとの邂逅。ぼくはその出逢いを通して、ぼくではないぼくへと変わっていけるだろう。

 当然、そこにはうんざりするような失望も付きまとう。しかし、出逢いを求めるなら、失望を避けることはできないのだ。

 作家は好きなように書けばいい。ぼくも好きなように読む。そのふたつの個性の衝突の瞬間に閃く火花が、即ち、ぼくの書評である。