もし、この世に、本を読むこと以上のたのしみがあるとすれば、それは読み終えた本について語りあうことだろう。
本書『読書会』は、その名の通り、作家山田正紀と恩田陸が過去の名作について語りたおした一冊。
取り上げられる作品はSF小説が中心で、『石の血脈』、『ゲド戦記』、『神狩り』、『バルバラ異界』など、錚々たるタイトルが並ぶ。
しかも、今回の論者はふたりとも現役の作家であるから、ただ名作に感嘆しているだけでは済まない。
時に話は作家の内面にまで及び、「もしわたしが書くのだったら」と興味深い仮定で話を進めることも少なくない。ぼくはおもしろく読んだ。
ただ、そこで気になるのは、ぼく以外のひとがどのように読むか、あるいは読まないか、ということである。
ここで山田と恩田が語りつづける「ことば」は、いったいどれくらいの距離にまで届くのだろうか。
この本で取り上げられている作品は、いずれも一部では有名なものばかりだが、しかしその「一部」以外では知らないひとのほうがはるかに多いはずである。
山田正紀や恩田陸の「ことば」は、そういったひとにまで届いているのだろうか。もし届いていないとすれば、どうすれば届くのだろう。
きょう、SFは以前に比べて衰えた、といわれる。いわゆる「SF冬の時代」である。
それでも、最近は何年か前に比べれば状況が好転しているといえるだろうから、さしずめ、いまは「SF小春日和の時代」といったところか。
その小春日和の日々をこえて、ふたたび夏の時代をめざすためには、可能なかぎり遠くまでとどく「ことば」が必要になってくるのではないかと思う。
そういう意味では、ゲストには山田や恩田とは全く違う「ことば」を用いるひとを招いてほしかった気もする。
今回、ゲストとして参加している笠井潔や萩尾望都は、たしかに大物ではあるが、ふたりとも筋金入りのSFファンであり、いわゆる「内輪」の外にいる人間とはいえない。
しかも、全員が一定以上の年齢であり、必然的にその「ことば」は、ある種の教養を前提としたものに限られる。
ぼくとしては、むしろ、熱烈なSFファン以外のひととの交流を読んでみたかった。
たとえば、ライトノベルの読者は、SFをどう読むのか? 現代SFの魅力は、はたしてかれらの心を震わせるに足りるのか? そちらのほうがより気にかかるのである。
個人的には、過去のSF小説のなかにも、いまの読者を驚嘆させるものがあることを信じる。しかし、とにかくにも読書のもとへ届かなければ意味がない。読まれることのない本は、どれほどの名作であっても、無に等しいのだから。
そういう意味で、たのしい一冊ではあったが、いくらか不満ものこった。
ぼくもこういう読書会をひらいてみたいなあ。チャットを用いて開くことはできるだろうけれど、ひとが集まらないんだよね……。