一昨日の記事の続き。

 さて、ぼくらはある作品を読んだとき、読むだけでは満足しきれずに、その作品を批評しようとすることがある。

 この場合の批評とは、他人にも理解できる「ことば」でその作品を分析することだ。

 そして、しばしば、この構成は緻密だとか、この心象は不自然だとか、出来のよしあしを定めようとする。その行為はどのくらい意味があることなのだろうか。

 最近、ケータイ小説と呼ばれる新しい小説が流行っている。いままで良く小説を読んできた層とはべつの、女子中学生や女子高校生に人気があるらしい。

 彼女たちは日頃からひんぱんに携帯電話をいじっているので、その画面で小説を読むということは自然なことなのだろう。

 しかし、その出来はといえば、ぼくのような人間から見れば稚拙に見える。いくつかのベストセラーは、はっきりいって一般小説の基準で見ればクズである。

 たとえば、『世界の中心で愛を叫ぶ』はお涙頂戴で退屈だ、などという話ともまた違うレベルでそうなのだ。

 とにかく、小説としての基本がなっていない。序盤から視点が狂うし、言葉遣いは間違えているし、とてもプロの作品とはいいがい。仮にどこかの新人賞に送っていたら間違いなく落選していただろう。

 ただ、それでいて、この作品が、一般的な小説が届かない層へ届いたことも事実。

 この作品に感動している読者に対し、視点が狂っている、などといっても、胡散臭そうに見られるのが関の山だろう。

 あきらかに、彼女たちにとってはもっと重要なことがあるのだ。その事実を過小評価するべきではない。

 何もわかっていないばかな女の子がさわいでいるだけだ、と決めつけてしまうことはたやすい。

 しかし、それは結局、いままで「低俗」なSFやホラーやライトノベルを頭ごなしに排斥してきた態度と同種の姿勢に過ぎない。

 それでは、逆に、ひとの価値観はそれぞれだ、ある作品を取り上げて良いの悪いのと言っても無意味だ、と開き直ってしまえばいいのだろうか。

 それもまた、たやすい態度ではあると思う。しかし、その道を採れば、結局、ひとりひとりの読者は議論の前提となる「ことば」を失って、孤立してしまうことになるだろう。

 それは長期的には文化全体の衰微をもたらす。そんな展開を防ぐためには、広く通じる「ことば」が必要だ。

 ようするに、作品を分析し批評する「ことば」とは、ある価値観を押しつけるためにあるのではなく、話しあい、つながりあうためにこそ必要とされるのではないだろうか。

 つまり、ある作品を傑作だ、駄作だ、と見る「ことば」は、その評価を押しつけるためにあるのではなく、その作品が本当に傑作なのか、駄作なのかと語り合うためにこそ、存在する。

 少なくとも、ぼくにはそのような「ことば」のほうが好ましく思える。そんな「ことば」を見つけ出せる日が来ればいいのだけれど。