昨日、チャットをする片手間にNHKのドラマ『スロースタート』後編を観ていた。

 ひきこもりやニートの青年(そういえば、なぜか出てきたのは男性ばかりだった)の相手をする団体で働いている女性の話。

 一応、フィクションという体裁ではあるが、原作は荒川龍『レンタルお姉さん』で、「ニュースタート」という団体の活動をもとにしているらしい。

 まあ、いろいろと、長所もあれば短所もある作品であった。内容の問題点をあげつらうことはたやすい。

 しかし、現状でどう対応するのが「正しい」のか、未だにだれにもわからない問題であることもたしかだろう。それにしては、健闘したほうなのではないかと思う。

 ひとつ気になったのは、先週放送の前篇で、自分の部屋のなかで「ぼくがここで死んで行くんだ!」と叫んだ青年に対して、主人公が「そんなに簡単に死ねないわよ」と告げる場面。

 そんなに簡単に死ねない? でも、現実に自殺しているではないか。年間何万人も。人間は、けっこう簡単に死んでしまうものなのではないか。

 もちろん、じっさいに自殺の道を選んだひとにしてみれば、そこに至る道のりは決して「簡単」ではなかったに違いない。

 しかし、よくいわれる「死ぬことができるくらいなら、どんなことでもできる」という言い草が胡散臭いこともたしかである。

 生きていくことは、時に、死ぬことよりもはるかに苦しい。

 これについては、先日亡くなったノンフィクションライターの永沢光雄が、『声をなくして』という本のなかで書きのこしている一文が忘れられない。

 私は昔から思っている。死ぬ、死ぬ、っていう奴に限って、必ず、自殺すると。

 永沢は、自殺したあるAV女優のことを回想しながらこう書いた。本当にそうだと思う。

 しかし、どんなに「死にたい」「死ぬほど苦しい」と言っても、生きている限り、「死ぬ、死ぬといいながら、お前は生きているじゃないか」という反論を受けつづける。

 そして、「お前が苦しいなどと言うのは、ただ甘えているだけだ。本当に追いつめられれば、そんなことは言っていられなくなる」という非難も。

 つまり、いま置かれている状況が、「死ぬほど苦しい」ことを証明するためには、本当に死んで見せるしかないのだ。そして、そのときには、すべてはもう遅い。

 「死ぬ、死ぬ、という奴に限って、本当に死んだりはしないものさ」という言葉は、本当は、そう言う側の願望に過ぎないのではないか。

 そう思っていなければ、なかなかひとと深く関われるものではない。

 『スロースタート』後編では、本当に自殺を図る男性が登場する。たまたまかれの命は助かり、そして両親はかれをそこまで追い込んだことを反省する。

 「死なない程度に死ぬ」こと。それが自分の苦しみを伝える唯一の手段なのだろうか。

 だとすれば、それは甘えだろうか。自分の命を使ってひとを脅しつけているだけだろうか。しかし、今日も、明日も、現実にひとはそうやって死んで行く。

 憶えておこう。

 死ぬ、死ぬ、っていう奴に限って、必ず、自殺すると。

レンタルお姉さん

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声をなくして

声をなくして