少年と少女と母と。

バレエダンサー〈上〉

バレエダンサー〈上〉

バレエダンサー〈下〉

バレエダンサー〈下〉

「でも、……ぼくはなにをすればいいの?」
「学校にいって、遊んでいればいいんです。ほかの男の子のように。」
「ぼくは、ほかの男の子じゃないんだ。」

 素晴らしかった。どういえばいいのだろう、とにかく素晴らしいのだ。読む前から期待していたが、その期待を上回る出来だった。

 物語は、ひとりの少年がある舞台に立つところから始まる。伝統あるロイヤル劇場では最年少のソロ。かれの名はデューン。そこから時間は過去へと戻り、デューンがその舞台に立つまでの道のりをえがいていく。

 このように書くと、なんだよくある天才少年ものか、と早合点される方もおられるかもしれない。一面ではその通りではある。デューンがバレエの天才であることは疑いようもない。

 しかし、かれの姉クリスタルと、母モードの存在が、この物語にほかにはない深みを添えている。

 クリスタルはこの作品のもう一方の主人公と言っていいだろう。モードにとっては待望の女の子で、彼女に溺愛されて育つことになる。そしてその愛こそがすべてを狂わせていく。

 むかし踊り子だったモードは、クリスタルの将来に期待をかけ、彼女をバレリーナに育てようとするのだ。じっさい、クリスタルにはそれだけの天稟があった。しかし、あまやかされ、贔屓される暮らしのなかで、次第にその才能は色褪せていく。

 一方、デューンはバレエを踊るために生まれてきたようなこどもだった。その天才はだれにでもひと目でわかった――かれの家族以外には。

 息子にふつうのこどもであることしか求めない父親と、クリスタルにすべての夢を託した母親は、デューンを決して認めない。そして、そのクリスタルはかれをさんざん苛めぬく。その態度はやがて虐待に近いものにまでなっていく。

 すこやかにのびていこうとするデューンの才能は、くりかえし、くりかえし、じつの家族によって踏みつけられる。

 しかし、それでもなお、デューン、その天才は、折れることなく芽を出し、茎をのばし、花を咲かせていく。まるで、みにくいアヒルの子が、うつくしい白鳥に変身しようとするように。

 母に認められなくても、家に居場所がなくても、ひとたび舞台に立てば、デューンほど華麗に踊る者はいない。そう、かれこそはバレエダンサー。生まれつき、見えない文字で額にそう記された「踊る者」。

 失意がかれのバレエを育み、孤独がかれのバレエを磨いていく。もとめても得られない愛の代わりに、拍手と賞賛を手にいれる術をデューンは学ぶ。そしてやがては万人がかれの天才を認めるまでになっていく。

 ただそれだけなら、たんなる芸術家の苦労話といって済むことかもしれない。辛いこともあったが、それすら成長の糧だったと。

 ところが、これらの残酷なほどの試練にもかかわらず、より深く苦しむことになるのは、クリスタルのほうなのだ。

 家族の理解を得られなかったデューンは、その代償のように行く先々で理解者を見つける。だれもがかれの才能を愛し、その天真爛漫な性格に惹かれていく。

 デューンはだれも恨まない。悪意のかたまりのようなクリスタルにまで深い愛情をそそぎ、裏切られても裏切られても愛することをやめないのだ。

 それに対し、クリスタルは長じるにつれて弟の才能に嫉妬するようになる。彼女はありとあらゆる手管を用い、弟をバレエから遠ざけようとする。まるでシンデレラの意地悪な姉のように。

 凡庸な作家なら、デューンの人生の障害物、どこにでもいる意地の悪い女性としてクリスタルをえがき、それで済ませてしまっただろう。ルーマ・ゴッデンは違う。

 物語が後半に入り、デューンの才能がかがやきはじめると、はじめはただの「意地悪な姉」だったクリスタルは、デューン以上に屈折した内面を抱え、その美貌と才能のためにかえって荒んでしまった少女として、見違えるような魅力を放ちはじめる。

 かわいい、美しい、優雅なクリスタル。しかし、彼女にはデューンほどの才能はない。バレエ以外のことなら、何もかも彼女が優れているだろう。バレエ以外のことなら。しかし、バレエは彼女を選ばなかった。

 あたりまえのように頭角をあらわしていく弟への嫉妬が彼女をさいなむ。そのあいだにクリスタル自身も稀有な才能を発揮しはじめるのだが、彼女にはそれだけでは足りないのだ。

 そして、運命は彼女にいままでの成功の対価を支払うことを求める。信じていたものに裏切られたクリスタルは、自分自身に絶望し奈落の底へと突き落とされていく。

 くらやみの底から光のなかへ駆け上がっていく弟と、光のなかから暗黒へ堕ちていく姉――その劇的な明暗! その時点でこの作品は優れた児童文学という次元を超え、一本のきわめて優れた小説としか言いようがないものになる。

 発売日から考えてありえないことだが、もし子供の頃にこの物語に出逢っていたらどんなに楽しんだことかと思う。

 たぶん、十二歳の頃に出逢っていたなら、生涯人生の指針となるような一作になっただろう。その後バレエにかんする物語を読むたび、デューンとクリスタルの名前を思い浮かべたことだろう。じっさい、この作品は萩尾望都のバレエものを思わせるところがある。

 ただ、もちろん、大人になったいまだからこそわかることもある。デューンの孤独、クリスタルの焦燥、それくらいは十二歳のぼくでもわかっただろう。どんなこどもでもそれに似たものを経験しているのだから。

 しかし、モードの苦しみはどうだろう。十二歳のぼくはうっかり見過ごしてしまったかもしれない。本編のなかでは、本名ではなく「かあさん」とだけ表記される中年の女性。彼女がこの物語の3人目の主役だ。

 モードはクリスタルばかりを熱愛し、デューンの才能には見向きもしない。デューンを全く愛していないわけではないが、クリスタルこそが彼女のすべてだったのだ。

 彼女の愚かさを責めることはたやすい。とがった言葉で無自覚にこどもを傷つける、無神経なモード。しかし、クリスタルがただの「意地悪な姉」で終わらないように、彼女もたんなる「残酷な母」にはとどまらない。

 ひょっとしたら、このオペラのなかで、デューンより、クリスタルよりも辛い役を割り当てられたのは彼女かもしれない。

 モードはどこまでもクリスタルを愛し、すべてをささげて彼女を育てる。場末の踊り子で終わった彼女にとって、クリスタルこそは夢を叶えてくれる運命の子だった。

 それなのに、その盲目の愛こそがすべてを狂わせて行く。あまやかされて育ったクリスタルは期待を裏切り、しまいには彼女をうとんじるようになる。

 こどもたちが広い世界へ旅立っていっても、彼女だけはいつまでもただのいなかの主婦のまま。なによりも愛した娘に傷つけられ、それでもわが子を守ろうとするモードの姿はあまりに痛々しい。

 何が悪かったというのだろう? だれひとりとして悪人ではないのに、だれもが傷つき嘆き苦しんでいる。まるで、バレエのいけにえにその人生をささげたように。

 三者三様の瑕をかかえたまま、物語は感動の結末へと突き進んでいく。デューンもクリスタルもようやく自分の場所を見出し、モードの指にかがやくエメラルドの指輪が家族の絆を象徴する。あらしのあとの青空のような、さわやかなフィナーレ。

 本書を物したとき、著者は既に80歳を過ぎていたという。その内容のみずみずしさを考えると、奇跡的な作品と言っていい気すらする。

 最近、純粋に「物語」としてこれほど感動的な作品を読んだ記憶はない。文句なしの傑作。なみだをこらえながらページをめくるのは本当にひさしぶりの経験であった。

 おすすめ。