昨年から書いている記事なのですが、いくら書いても巧くまとまらないので、まとまらないまま載せておきます。まあ、いままで書いてきたオタク論の総括みたいなものなんですけれど。

 何度も同じことを書くなと思われるかもしれませんが、こちらとしては書くことによってまとめている側面があるので、我慢して読んでください。あるいはスルーしてください。

 さて、たぶん同世代には似たような感覚を抱いているひとも多いと思うのですが、ぼくはずっと「オタク」という言葉に違和感を感じてきました。

 どうやら自分のことを指しているようなのに、でも一方では自分の内実をあらわしているとは思えない。

 いわゆる世間一般のネガティヴ・イメージに違和感を憶えるだけじゃなくて、オタク論者によるオタク論にもはっきり「違う」と感じる。

 岡田斗司夫の『オタク学入門』にせよ、本田透の『電波男』にせよ、はっきりいって別世界の話をしているようにしか思えない。

 いま思うと、たぶんそれはオタクないしオタク文化をどう捉えるかというところに生じる違和感だったのだと思います。

 『オタク学入門』では、はっきりとオタクという存在を特別なものとして捉えている。岡田さんの言葉を使えば「貴族」ですね。

 また、それより下の世代の本田さんが書いた『電波男』でも、「萌える」ということを非常に特殊なことのように論じている。ここらへんの感覚がどうにもぼくには共感できない。

 ぼくは文化とは基本的にシームレスなものだと思っている。つまり、ここからここまでがこのジャンル、というふうに明確に区切ることはできないものだと、そういう境界線があったとしても必ずそれを越えて影響しあうものだと捉えている。

 したがって、あるジャンルだけを特権的なものとして語ることはできない。また、あるジャンルだけが特別に好きなわけでもない。

 アニメ見ていてもアニメが好きなわけじゃない。エロゲやっていてもエロゲが好きなわけじゃない。ラノベ読んでいてもラノベが好きなわけじゃない。個々の作品が好きなだけであってね。

 ここは勘違いしてほしくないところなのだけれど、アニメーションの表現力とか、コンピューターゲームの中毒性とか、イラスト付き小説の可能性といったものは評価しているし、素晴らしいものだと信じています。

 でも、どういえばいいんだろ、そこに忠誠心を抱いているわけじゃない。ほかにもっとおもしろいものがあればいつでもそっちに行くぜ、と思っている。

 じっさい、いまではゲームもあまりやらなくなったし、ライトノベルもめったに読まなくなった。

 ただ、それはべつにそのジャンルを見限ったということでもない。またおもしろいものが出て来るようならいつでも戻っていくことでしょう。

 ようするに文化全体に境界線をひいて、おれはここの住人だ、と考えることはあまりない、ということ。

 こういう態度は、ある文化を特権的なものとして愛するひとからしてみれば、「裏切り者」に見えるかもしれない。

 たびたび例に挙げて申し訳ないのですが、山本弘さんが「文学」に「媚びる」SFファンを「動機不純!」と断じるのもきっとそういうことなのでしょう。

 たぶん、表現に対する抑圧が強かった時代にはそういう態度も意味があったのだと思う。抑圧に対抗するという形でジャンルのアイデンティティを確立するわけですね。

 ただ、いまとなってはそういう態度にはリアリティを感じられない。なんだろ、「ロックは反抗の音楽だぜ!」といわれているようで、居心地が良くないですね。

 ようするにぼくは好きなものを好きなように楽しめればそれでいいと思っているので、そのジャンルに「オタク」という名札がついているかどうかは、どうでもいいのです。

 ここらへんの話は、ここのコメント蘭とかここで論じられている「オタク」と「サブカル」の話とも関係しているかもしれません。

 オタクが「オタクらしくない」文化について話すことを「かっこつけてる」とみなす価値観はありますよね。

 これはまあ、わからなくもない。たしかにぼくも本当はアニソンしか好きじゃない奴が、聞きたくもない洋楽とかクラシックを聞いているのなら問題だと思う。

 でも、じっさいには、アニメやゲームを通して洋楽やクラシックに触れるということもありえるわけです。

 『涼宮ハルヒの憂鬱』を見ていてBGMに興味をもつとか、『CLANNAD』をプレイしてモイヤ・ブレナンに関心を抱くということもあるはず。

 そういうとき、「これはオタク的じゃないから」ということでそれらを拒絶してしまうとすれば、不幸なことだと思う。つまり、ここは自分の領分ではない、という認識は、より豊かな文化体験を阻害する可能性があると思うのです。

 もちろん、逆のこともいえる。「アニメなんてくだらない」とか「しょせん漫画は漫画だろ」などと見下した態度をとることによって優れた作品を見逃してしまうことはありえる。

 ようするに あるジャンルを過剰に持ち上げることと、はなから見下すことは、表裏一体の関係にあるといえるんじゃないか。ぼくはそのいずれにもあまり共感を抱けません。

 ただ、そうやってほかの文化との出逢いを逃がすことを、「もったいない」と感じることは、既に古い世代の価値観に過ぎないのかもしれません。

 いまオタクと呼ばれている若い世代は、かつてない物量のコンテンツを安価に享受することができます。

 このような状況に置かれていると、あえて広い世界を探求しよう、とは思わないものなのかもしれない。目の前にあるものだけでじゅうぶん満腹になれるわけですからね。

 かれらがどんな感覚を抱いて、どんな文化を発展させていくのか、そこまではぼくにもわかりません。

 ひょっとしたらひどく閉鎖的で自慰的なものになるかもしれないし、あるいはいままでになく開放的なものになるかもしれない。よくわからないということが、楽しみでもあり、恐ろしくもあります。

オタク学入門

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電波男

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CLANNAD -クラナド-

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