id:Maybe-naさんがトラックバックしてくれた記事がおもしろいです。『げんしけん』最終巻おまけの同人誌を枕に、オタク世代論を語り倒している。

 ここら辺のことはぼくも何度か取り上げていますし、それは上記の記事のなかでも引用されています。

 もう、ぼくなんかから見ると、上の世代の考えていることはさっぱりわからないという側面があって、その違和感を何とか言葉にしようとしてきたわけです。

 もちろん、すべてが世代論で割り切れるわけではないでしょうから、大まかに分けてこういうことが言えるという程度の話です。

 しかし、それにしても、岡田斗司夫さんとか、山本弘さんの発言を見ていると、隔世の感がありますね。

 何だろう、戦中世代の苦労話を聞いているのとあまり変わりない。ああ、むかしは大変だったんですねえ、みたいな。はっきりいってしまえば、他人事ですね。直接に自分と関係している話とは思えない。

 だから岡田さんが「オタクは死んだ」と嘆いてみせても、全く悲嘆する気にはなれません。どこか遠い世界の話としか思えない。

 上記の記事では、岡田さんのその発言を収めた同人誌から引用されています。そのなかに、オタク文化が「死んだ」理由を、ネイティヴ・アメリカンの文化にたとえて語っている部分がある。孫引きになりますが、ぼくも引用させてもらいましょう。

ま、ヘンな言いかたになるんですけども、ネイティブ・アメリカンというのがありまして、言いにくいからインディアンと言います。インド人という意味ではありません。

(中略)

インディアンというのはもういないです。もちろん、インディアンという人たちはまだいますけど、インディアン文化というものをもう維持できなくなっていますね。

(中略)

文化というもの、民族というもの、文化的に定義された民族ですね、そういうふうなものを保持するには、それなりのまわりの境界線とか、特有な文化が必要なんですね。

つまり、インディアンが成立するためには、白人と交流があってもいいけども、白人文化のなかでは、もうインディアンは生きていけない。インディアンという種族は生きていけるんですけど、インディアンという民族、文化風俗は死に絶えて、ご先祖様がやってた、こんなアクセサリー作ってた、じゃドライブインに売るべぇというひとたちがいま生き残っている。こういうことなんですね。

(中略)

で、そうい意味で、共通文化というものを失っちゃった、もしくは相互理解という幻想を失っちゃった私たちオタクっていうのは、もう、いないんです。

死んじゃったってのは言いすぎかもわかんないですけど、いないですね。

ほかのひとたちとの文化と簡単に混ざり合い、萌えって言って入ってきた人たちと簡単に混ざり合い、彼らとある程度言葉も共有できちゃうんですね。

 ご覧のようにところどころ省略されていますから、岡田さんの真意がどこにあるかはわかりません。

 ただ、もし岡田さんが「インディアン文化」や「オタク文化」が、ほかの文化とのかかわりあいのなかで衰微していくことを嘆いているのだとしたら、ぼくとは全く違う感覚だというしかありません。

 たしかに、いまの時代、かつてのネイティヴ・アメリカンの偉大な文化は衰えたかもしれません。

 でも、ぼくはそれはしかたないことだと思うんですよね。ネイティヴだって変わりつづけているんだから、いつまでも先祖古来の文化を守りつづけてはいられないだろうと。

 これ、遠いアメリカのことだと思うから「いや、でも、貴重な文化が……」とか思うけれど、ぼくら日本人にしてからが、過去の偉大な日本文化を切り捨ててここまで来たわけです。

 もしだれかに「日本古来の文化を守れ」とか言われて、『シグルイ』みたいな生活をさせられたらいやでしょ? いやですよね?

 いまさら士農工商の時代には戻れないし、まげもゆえないし、着物に下駄で歩くわけにもいかない。それが現実です。そして、日本人にできないことをネイティヴ・アメリカンにやれとはいえない。

 だから、無理なんですよ。ある文化をそのまま保存しようとしても。文化とは、ほろびるものなんです。

 というか、ひとつひとつの文化がお互いにかかわりあいながら、ほろびてはまた生まれ、生まれてはまたほろびる、その普段の変化をこそ文化と呼ぶのだ、とぼくは思います。

 エジプトのピラミッドは美しい。フランスのベルサイユ宮殿は素晴らしい。でも、その時代の文化というものは、いまではほとんど失われてしまった。それは仕方ないことですよね。いまの時代にファラオだの絶対王政だの維持できるはずもないんだから。

 その代わり、いまの時代にはいまの文化があるし、過去の遺産も、わずかではあるがのこっている。その時代の文化の大半は消えても、ひとにぎりの傑作は時を超え、変化を超えて生きのびている。それでいいじゃないか、とぼくは思います。

 だから、「オタクは死んだ」といわれても、ぼくとしては、そうですか、ご冥福をお祈りします、としか言いようがない。オタク文化だろうがほかの文化だろうが、いずれはほろんでいくことが当然だと捉えているからです。

 ほろんでいくと書けば、その先には不毛の時代が待ち受けているように思えるかもしれません。

 しかし、じっさいにはそうではない。社会が変化していくのに伴い、文化もまた変化していくという、それだけのことです。人間はいままでもそうしてきたし、これからもそうするでしょう。

 ぼくにいわせれば、ほかの文化とかかわり、影響を与えながらほろびていくことのほうが、「オタク文化」という殻のなかに閉じこもって生きのびていくよりもよほど健全なことです。

 ある文化を殻に閉じこめて維持しようとしたら、殻のなかで腐っていくだけではありませんか?

 熱心なSFファンである山本弘さんは、J・G・バラードらの「ニューウェーブ」運動がSFに「文学」をもちこんだことによってSFは変質してしまった、と嘆きます。

 そして「文学」に媚びるな、と主張します。しかし、もしバラードらがSFに「文学的」な作品を持ち込まなければいまのSFはどうなっていたでしょう?

 山本さんが好きなタイプのSFは維持されたでしょうが、たとえば飛浩隆のような、スタイリストは生まれなかったかもしれません。

 SFは、SF的でないものと交わることによってより豊かになってきた。ぼくはそれこそ文化と呼ぶにふさわしいものだと思います。ぼくはそういうSFが好きです。

 ふたたび日本を鎖国して日本文化を守ることができないように、いまさらSFから「文学」を排除できないように、「オタク」という殻のなかに閉じこもってオタク文化を守ることもできない。

 その意味では、なるほど、オタクは死んだ。アーメン。しかし、そこですべてが終わったわけではない。ぼくたちは既にポストオタクを生きているし、次つぎとあたらしい作品が生まれてきている。

 そのなかには、たしかにどうしようもない駄作もあるけれど、素晴らしい傑作もある。そしてまた、この時代では、昔、「オタク文化」と呼ばれたものは、ほかの文化とまじわって、またあらたな文化を生み出していくでしょう。それでいいではありませんか。

 オタクは死にました。しかし、ぼくたちはまだ生きています。もうオタクではない何者かとして。ただのぼくたち自身として。それでいいと、第三世代のぼくは思うのです。