地球最後の日 (SFセレクション)

地球最後の日 (SFセレクション)

 電話がなっている。君からだ。だけど、ぼくは、受話器をとることができない。いまのぼくには、君と話をする資格なんてない。机にうつぶせになって耳をふさいでいても、ベッドの中でふとんにくるまって小さくなっていても、電話のベルの音は、虫歯の痛みのようにぼくの神経に突き刺さってくる。

 地球最後の日。

 いかにも暗い内容を予感させるようなタイトルからもわかる通り、沈鬱な作品ばかりが集められたアンソロジーである。

 一昨日取り上げた『変身願望 −メタモルフォーゼ−』を虹色にたとえるなら、こちらは黒。全作、全編、にごりのない漆黒で染め抜かれた一冊といえる。

 いやあ、これはちょっと、凄いですよ。いいかげん大人のぼくが読んでも憂鬱な気分になるんだから、子供が読んだらどう思うことか。もちろん、作品を選ぶほうもそういう事態を想定して選んでいるのだろうが。

 那須正幹「The End of the World」は核戦争後の世界でシェルターにこもった一家をえがいた好短篇。

The End of the World

The End of the World

 安全なはずのシェルターのなかにいつしか放射能が忍び寄り、まず母が倒れ、次に父が臥せる。そして、やがて主人公自身の身にも病が忍び寄ってくる。密閉空間ならではの恐怖。

 さいごの一行に至るまで全く救いがない展開が素晴らしい。しかし、ここにはある種のある種の突き抜けた清冽さがあり、意外に読後感は悪くない――と、いえなくもない。

 それに比べると三田村信行「おとうさんがいっぱい」ははるかに不気味だ。ある日、突然、日本中の家庭の「おとうさん」が増えてしまう――という不条理な恐怖を淡々と綴っている。

おとうさんがいっぱい (新・名作の愛蔵版)

おとうさんがいっぱい (新・名作の愛蔵版)

 けっきょく、そのなかからひとりが選び出され、のこりは「余分人間」として処理されることになるのだが、生活と密着している状況だけに、生理的な嫌悪感がつよい。

 もし、うちの「おとうさん」が増えてしまったらどうしよう、というような、不条理なのに妙にリアルな想像が浮かぶ作品である。

 赤川次郎「悪夢の果て」は、学校教育への奉仕活動導入が決まった日、家族ごと戦前へタイムスリップしてしまった男の物語。例の「教育改革」の現状を見据えると、ある意味ではフィクションとはいいがたい。

悪夢の果て シリーズ・闇からの声 (光文社文庫)

悪夢の果て シリーズ・闇からの声 (光文社文庫)

 曾祢まさこ「おむかえがくるよ」は現代版「姥捨て山」。一律に寿命が制限され、有料のくじでのみ猶予が決められる社会をえがいている。ヘビーな結末が印象的だ。

 しかし、この本の白眉は川島誠「電話がなっている」に尽きる。この作品、一部では「トラウマ児童文学」として有名らしい。たしかに幼い頃読んだら眠れなくなるような作品である。

セカンド・ショット (角川文庫)

セカンド・ショット (角川文庫)

 さすがにこの歳になると結末にそう意外性は感じない。むしろ印象が強いのはさりげない描写から匂うなんともいえない生理的ないやらしさ。

 スティーヴン・キングの『キャリー』のよう、といえばいいのだろうか。主人公の少年の前で「脚の間にサロンパスのようにはりついている」生理用ナプキンを、「慣れない、ぎこちない手つきで気持ち悪そうに」はがす場面のいやらしいこと。

 自分より前にほかの男に身を任せた少女に対し、なぜそんな真似をしたのかと主人公が尋ねたときの、彼女のこたえが素晴らしい。「被害が少なそうだったから」。ある意味、この本でいちばん怖いひと言であった。