一昨日の記事の続き。

 さて、たくさん寄せられたコメントやトラックバックを考えてみたところ、どうもあの記事の問題点は「鑑賞」と「批評」を混同しているところにある気がしてきた。

 この場合の「鑑賞」とはリアルタイムで作品を楽しむこと、そして「批評」とはその内容を分析し評価すること、と受け取ってほしい。

 ある作品を「鑑賞」するとき、そのひとのあたまのなかではいくつもの快楽性が同時に立ち上がる。それは物語の筋立てのおもしろさや音楽の美しさだったり、キャラの魅力だったり、あるいは文章の流麗さだったりする。

 そのとき、そのなかのひとつの要素に意識が行きすぎて、ほかの要素への注目がおろそかになる、ということは考えられるだろう。つまり、あるキャラに惚れこんでそこに意識を集中するあまり、物語とか設定への配慮が薄くなってしまうことはありえる。

 たぶん竹熊さんが言う「キャラを見て作品を見ていない」状態とはこのことをいうのだと思う。

 とはいえ、キャラ以外の要素が完全にあたまから消え去るような事態は考えづらい。どんな重度の萌えオタだろうが、話の筋くらいは追いかけているはずだ。

 竹熊によれば、かれがいうところの「密教オタク」は、作品を鑑賞するとき、「キャラの快楽性(=キャラ萌え)」が抑圧されているのだという。だったら、その時点で既に作品を「トータル」で鑑賞することはできないのではないか、とぼくは考えた。

 つまり、そういうひとが作品を見ても、「トータル」−「キャラ萌え」の快楽性しか鑑賞できていないことになるではないか、と。

 ここらへんはいまもそう大きく間違えているとは思わない。しかし、よくかんがえてみると、「鑑賞」と「批評」、そして作品の一部分としての「キャラ」と、作品によってひき起こされる快楽性である「キャラ萌え」を混同していたようだ。

 ここに「キャラ萌え」が抑圧されているひとりの人間がいるとしよう。かれはどんな作品を見ても、「キャラ萌え」を感じることはない。感じたとしてもすぐに封印される。

 しかし、そんなかれも、いざその作品を「批評」しようと思えば、個々のキャラが作品のなかでどのような役割を果たしているのか、分析し、解説することはできるだろう。

 つまり、かれは作品を「キャラの快楽性(キャラ萌え)」も含めた「トータル」で作品を「鑑賞」することはできないが、「キャラ」という要素も含めた「トータル」で「批評」することはできるのだ。

 もちろん、世の中には、ほとんどキャラに重点を置いていない作品もたくさんある。そういう作品にかんしては、「キャラ萌え」受容体のないひとでもほぼ「トータル」で「鑑賞」できるといっていいと思う。

 念のために付け加えておくと、「キャラ」に快楽性を感じないからといって別に悪いことではないし、何かが不完全であることを意味しているわけでもない。その反対でもない。

 以上、反省終わり。