昨日、『零崎軋識の人間ノック』を読んでつくづく考えた。いやあ、キャラクター小説って、本当におもしろいですね。

零崎軋識の人間ノック (講談社ノベルス)

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 ぼくだけではないと思うが、いったんあるキャラを好きになってしまえば、そのキャラがほかのキャラと絡む、それだけである種の快楽性が生まれる。『人間ノック』でいえば、玖渚友がちらっと出てきてわがまま言っているだけで何となく楽しい。

 『涼宮ハルヒの憂鬱』でいうなら、ハルヒキョンがいつものように絡んでいるだけで一応おもしろいし、評判のよくない〈ネギま!〉の新作アニメも、お馴染みのキャラが出ているだけでそれなりに楽しく見れたりする。

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 エロや二次創作も含めて、そういったキャラの魅力だけで作品を楽しめてしまう一面が、ぼくにもたしかにある。たまにおもしろい同人誌なんか読んでいると、これだけで一生過ごせるんじゃないかな、と思うもん。いや、おもいっきり錯覚なんですが。

 昨日も書いたが、西尾維新ほどの書き手ならば、このようにキャラとキャラの関係性をえがくだけで無限に新作を生み出していくこともできると思う。

 しかし、それは、それだけでは「物語」ではない。物語未満の何かである。そういった複数の関係性を収斂し、ひとつの方向へすすめて行く指向性があってはじめて、そこに物語が生まれる。

 その意味で、西尾維新が〈戯言シリーズ〉を終わらせたことは、かれがひとかどの物語作家であることの証明である、といえる。だからかれの作品は、ぼくのような「萌えオタ」にとってはおもしろい。

 とはいえ、キャラクターの快楽性に耽る「萌えオタ」は、しばしば前世代から批判を受けることも事実である。奴らはキャラクターだけを見て物語を見ていない、というのだ。

 その典型的な一例を竹熊健太郎と大泉実成の対談に見ることができる。

――1977年のアニメブームの時は僕も劇場に行きましたけど、作品はひどいなと思って、あの人波の一人になるのは嫌だなと思いましたね。
竹熊 最初はすごく期待していたけど、期待したぶん、納得できなかったですね、僕も。要するにこいつら(大勢の観客)はどこ見てんだ、って話だよね。作品見ないでキャラだけ見てる。
――ニュースで劇場が映されて「感動した」とか言ってる奴を見て「バカじゃねえの、駄作じゃねーか」と思っていた記憶はあります。
竹熊 「古代君ステキー」とかさ。ガンダムも最初はそうだったのよ。女の子のファンが「シャア素敵ー」って。女の子のマニアックな活動のルーツは、僕は宝塚ファンにあると思うんですけど、彼女らは宝塚スターが好きなわけでしょう。あまたいる中で、ひいきができて……。あれを男も真似しはじめたのが、オタク的文化の一つの始まりかなと思ってるんですね。(後略)

 ここで、竹熊は「作品」と「キャラ」が異なる概念として提出している。「キャラ」を見ていながら、「作品」を見ていないということがありえる、とされているのだ。

 しかし、考えてみれば「キャラ」とはどこまでもいっても「作品」の一要素なのであり、「キャラ」と「作品」をこのように対置させることはおかしいようにも思われる。

 物語だけ見て作品を見ない、という言い方を考えてみればその不自然さはあきらかになるだろう。「キャラ」を見ている以上、少なくとも作品の一部分は鑑賞していると考えるべきである。

 いや、つまらない揚げ足取りをしたいわけではない。そうではなくて、ここで竹熊が「キャラ」と「作品」を区別できるものとして語っていることは、前世代においては主流だったかもしれないある種の作品鑑賞作法を象徴的にあらわしていると思うのである。

 このあとの対談では次のような会話が登場する。

――思うのは、密教的なオタクの人にしてもキャラ萌えはどこかにあるわけですよね。
竹熊 あります。そうした要素がないと、そもそもオタクにはならないとも言える。
――それを何らかの世代的な理由によって、抑圧しているわけですよね。
竹熊 抑圧してるわけだよね。キャラ萌えは勿論あるんだけども、そこは意図的にセーブするのが密教オタクの条件みたいなもので。僕についていえば、やはりトータルで作品は見るべきだという思いがどうしても強い。キャラ萌えだけではなくて、ストーリーとか作者の考え方とか、それ以外のディティールも含めて作品なのだと。ある意味古い考え方かもしれない。

 しかし、ぼくにいわせれば、「キャラ萌え」を「抑圧」している時点で、「トータル」で作品を見る見方は阻害されているのである。

 つまり、「キャラ萌え」とは作品の一要素なのだから、それを作品から排除してしまった時点で、既に「トータル」で作品を見れなくなっているのではないか。

 たとえ「ストーリーとか作者の考え方とか、それ以外のディティール」を完璧に把握できていたとしても、「キャラ萌え」という要素を「抑圧」していれば、それだけで作品を十全に把握できていないということもありえるはずだ。

 先に話が出た映画にしても、もし、竹熊のいう「大勢の観客」が「キャラ」だけを見て「それ以外」を見ず、竹熊が「それ以外」を見て「キャラ」を見ていなかったとするならば、そのどちらも作品を総体として見ることに失敗している、ということもできるのではないか。

 この点について、伊藤剛は『テヅカ・イズ・デッド』でこのようにまとめている。

 実際のところ、マンガを「読む」際、完全にキャラクターだけを見つめる「読み」があるとも考えにくく、逆にキャラクターの魅力をまったく無視したストーリーテリングもまた非現実的であろう。だからそうではなく、同じ読者の一回の「読み」の内部においても、複数のレヴェルの快楽が同時に駆動していると考えたほうが合理的だ。また、ある快楽の享受が他の快楽の意識化を妨げたりもすると考えられる。キャラクターの魅力に強く動かされている読者は、同時に駆動されている他の快楽、たとえばストーリー上の展開の妙をあまり意識しないだろうし、逆もしかりである。さらにいえば、その「快楽」の記憶が、他者に対する「語り」の場面で呼び起こされ、「語り」として組み上がっていく過程で、さらなるフィルタリングがされる。しかし、それは「同時に」駆動されているのである。

テヅカ・イズ・デッド ひらかれたマンガ表現論へ

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 わかりやすく書けば、こういうことだ(と思う)。あるひとがある漫画を読んでいるとする。それこそ〈機動戦士ガンダム〉でもいい。

 そのとき、シャアかっこいい、と感じるキャラ萌え心理と、このあとシャアはどうなるのだろうと期待する物語読みの心理と、このコマ割りの構図は巧いな、と感心するメタレベルの批評家心理は、同時に駆動されることがありえる、ということである。

 むしろそれは密接なかかわりあいをもちながら同時に立ち上がってくるというべきだろう。もしシャア=アズナブルというキャラクターに何の興味も抱けなければ、かれが危機に陥ったところでなんの関心も生じないに違いない。

 ここでぼくたちが考えるべきなのは、作品を構成するあらゆる要素のなかで、なぜ「キャラ」だけが特権的に扱われるのか、扱われてきたのか、ということである。

 ある映画を見に行って、その音楽について語ったとして、「音楽だけを聴いて映画を見ていない」と批判される事態は考えにくい。しかし、どういうわけか、「キャラ」においてはそういうことがありえる。

 前世代から見れば、新世代の「萌えオタ」は「キャラ」だけを見て作品を「トータル」で判断できていないように見えるかもしれない。

 しかし、見方を変えれば、いまようやく竹熊がいうような「抑圧」から解放され、作品を「トータル」で見ることができるようになった、ということもできる。

 もちろん、伊藤が語るように「ある快楽の享受が他の快楽の意識化を妨げたりもする」ことはありえるだろう。しかし、少なくともそのひとが「キャラ」に萌えているからという理由で、作品を「トータル」で見ていないと批判することはできないのではないか。

 そして、「キャラ萌え」にかんする「抑圧」が薄れたことによって、本当に「物語」が衰え、作品が断片化したのかということも、慎重に考えていくべきだろう。

 たしかに、手塚治虫のように短いページ数で壮大な展開を語れる物語作家は少ないかもしれない。しかし、逆にいえば、長大な作品を緻密に構成してのける作家が増えた、ともいえるのである。

 少なくとも、現代における「キャラ萌え」作家の代表格ともいうべき西尾維新は、いたずらに物語をひきのばすことを拒否し、いさぎよく一定の長さで作品を完結させることに成功したわけだ。

 いったい「キャラ」とは何なのか? そして「物語」とは何なのか? いま、前世代を縛っていた「抑圧」から解放されたぼくらには、それを語る言葉があるはずである。