満18にもなっていつまでもコロコロの漫画を卒業できず読んでる僕はガキっぽい駄目な人でしょうか


 ちょっとおもしろい質問だ。ごく他愛ない内容に見えて、その実、なかなか深遠な問題を秘めていると思う。

 ほとんどの回答者がこの質問者に対して肯定的な回答を出している一方、幾人かはしかし「世間」を意識することも大切だ、と語っていることが興味深い。

 ぼくなりの意見を付け加えるなら、こども向け漫画をおとなになっても読みつづけることを「恥ずかしい」と感じるひとは、物語の内容と表現を混同しているのではないかと思う。

 たしかに、「コロコロコミック」に載っているような漫画の内容は、こども向けであり、こどもの目で見たときいちばん楽しめるようにアレンジされている。

 しかし、それはその作品が漫画表現として低次元であることを意味しない。その筋立てがわかりやすく、表現が平明であるからという理由で、オスカー・ワイルドの「幸福の王子」を否定するものがいるだろうか?

 子供と大人の関係は非対称である。幼児は成人向けの作品を理解することができない。その一方で、大人は子供の本を楽しむこともできるのだ。

 たしかにある時代までは、漫画は成熟とともに「卒業」していくものだという価値観が支配的だったかもしれない。いい年をした大人が電車のなかで漫画を読んでいることは恥ずかしいことだ、という思い込みもあっただろう。

 しかし、その時代は既に過ぎたのではないだろうか。もちろん、いまでも「世間」はいくつもの偏見を抱えてはいる。とはいえ、ことフィクションにかんして、ぼくは「世間」の尺度を信用していない。

 「世間」はあきらかにぼくほど物語に興味がないのに、どうしてそれを信頼できるだろう?

 「世間」が最も気にするのは世間体である。それに対し、ぼくにとって重要なことはその作品がおもしろいかどうかだ。根っこのところで価値観が違うわけで、多少のすれ違いはどうしようもない。

 もし「世間」の価値観がいつも正しいとするならば、高視聴率番組やベストセラーは傑作揃いという理屈になる。それに対して現実がどうであるかは、皆さんご存知の通り。

 そもそも、加齢とともにそれまで読んでいた本を「卒業」していく、つまり蝶が脱皮するように過去の自分を切り捨てていくという思考の枠組みそのものが、ぼくにとっては受け容れがたいものである。

 年をとるにつれて、ぼくは以前より多様な種類の本を読むようになった。幼い頃には理解しがたかった作品の価値がわかるようになり、それとともに、探検家が未踏の地を踏むように、あらたな本に出逢ってきた。

 しかし、だからといって以前好きだった作品を「卒業」したわけではない。小学生の頃読んでいた〈ロードス島戦記〉や〈フォーチュン・クエスト〉を、ぼくはいまでも読んでいる。

 それが恥ずかしいとは思わない。その価値観の基軸となっているのは、ぼくの人格は加齢に伴って拡張されただけで、根本的に変容したわけではないという認識である。

 ぼくにとって、それも十分「成長」と呼ぶに値する変化である。そういう認識のフレームで生きている。