本土にいる人たちは、離れ小島の住人たちを見て、「あの人たちは離島暮らしで、可哀想だ」と哀れんだりするものです。しかし本土と島の関係性というのは、上と下ではないということが、島に住んでいるとよくわかる。もちろん住環境はだいぶ異なるものの、本土に住むと幸せで、離島は不幸というわけでもありません。

 酒井〈負け犬の遠吠え〉順子と、斎藤〈社会的ひきこもり〉環の対談集。おもしろかった。

 内容は多岐にわたっており、とてもかんたんに説明できるものではないので、自分自身に関係するところに軽く話をしよう。

 この本のなかで、斎藤環は、男性オタクは「所有」のエロスをもとめて美少女ゲームやフィギュアに耽るようになり、女性オタクは「関係」のエロスにひたって「やおい」に走った、と語っている。

 本職のラカン精神科医のいうことだから、まあ、そうなのだろう(権威に弱いぼく)。ぼく自身の実感ともそうずれていない。

 しかし、ぼくは男性にも「関係」に対する欲求はあると思う。あるいは少なくとも育ってきている。いまは男でも百合が好きなひととかいるわけですからね。

 男性による百合創作でポルノ的内容が少ないこともこれで説明できると思う。つまり、百合は「関係」の妙をたのしむジャンルだから、そこで「所有」的なエロスを満すことはできない。

 むしろ、そこに「所有」的なエロスをもちこんでしまえば、繊細な「関係」の構図を壊してしまうことになる。しかし、それでもなお、そこに「関係」の魅力を見出す男性も少なくなくなってきている、ということではないか。

 自分が男性的でないとは思わないし、「所有」の欲望がないともいわないが、ぼくもどちらかといえば「関係」に魅力を感じる人間だと思う。

 そういえば、フィギュアとかポスターとか、その種のものに対してはなんの興味ももてない。男性オタクの特徴のひとつとして挙げられることも多いコレクション欲求も、ぼくにはあまりない(と思う)。

 ここまで考えると、きのう読んだ「萌えの研究」のなかで、大泉実成が〈マリみて〉にかんしてこのように書いていたことが思い出されてくる。

 このように考えていくと、僕にはまったく謎だった『マリア様がみてる』の魅力が見えてくる。つまり、女の子に萌えたく、しかもストレスのない作品を読みたければ、作中の男性キャラはいなくても良いのである。いや、いないほうがストレスがなくていいのだ。僕のように妄想力の希薄なノンフィクションライターは物語の中に自我を託せる男性キャラがほしくなるが、熟練のオタクの妄想力があれば、女の子だけの話にいくらでも妄想をぶち込めるであろう。

 これは、ある意味では真実ではあるが、やはり一面的な理解といわなければならないだろう。

 その根底には、「所有」ではなく「関係」により魅力を感じるような男性が増えてきている、という事情があるのではないか。

 あるいは、これは女性オタク文化との交流のなかで生まれてきた流れなのかもしれない。

 男性オタク文化と、女性オタク文化は、まったく無関係に進化してきたように見えて、やはりある程度かかわりあっている*1。こういった欲望がそこから来ているとしても、それほど意外なことではないだろう。

 そういうわけで、いろいろな意味でなかなか興味深い本であった。「所有」と「関係」の話は続くかも。

*1:たとえば、「萌え」なんて言葉は男性オタク文化のなかで生まれて、女性にまで広まっていったわけです。