初回限定版 魔法先生ネギま!(16) (プレミアムKC)

初回限定版 魔法先生ネギま!(16) (プレミアムKC)

 昨日の記事の補記。

 一応、〈ネギま!〉の今後の展開を占なってみたわけですが、これは必ずしも赤松さんがこうかんがえている、ということではありません。

 推測の上に推測を重ねているわけで、この考えかたがどの程度あたっているかは神と赤松健のみぞ知る、というところ。

 ただ、「こういう風に読むこともできる」ということを示してみただけです。そして、この「読み」の多様性こそが、即ちその作品の豊かさなのではないかと思っています。

 たとえば「DEATH NOTE」は、まさにそういう意味で豊かな「読み」を許す作品でした。たんにたんにスリリングなゲームの物語としても読めるし、夜神月の理想はどのくらい正しいのか、と考察しながら読むこともできる。

 作者はそれに答えを出していないし、ひょっとしたらなにも考えていないのかもしれないけれど、とにかく読者の方はその物語を鍵に考えていくことができる。

 ひとつの作品が複数の解釈を許し、さまざまな方向からスポットライトがあてられる。それでこそ真の傑作といえるでしょう。

 文学畑の話になりますが、ウラジミール・ナボコフの代表作「ロリータ」には、現在「修正主義」と呼ばれる問題が立ち上がっていると言います。

 じっさいにはかなり込み入った議論があるらしいのですが、省いて説明すると、小説のなかの日付に数日のずれがあり、これがたんなる作者のミスでないとすると、小説に書かれた記述がすべて事実だとは受け取れなくなってくるのではないか、という問題です。

 これにかんしてナボコフ研究家のあいだで喧喧諤諤の熱論が巻き起こっているのだとか。

 ここでかんがえられるいちばん簡単な解決は、作者自身に尋ねてみることでしょう。じっさいにはナボコフは泉下の住人ですが、仮に交霊術をもちいてかれの霊を呼び出し、この問題について問い質したとしましょう。

 作家の霊は言下にすべてを否定するかもしれません。それはただのミスだよ、と。しかし、それではそうなったとき、それまでの議論はすべて無意味になってしまうのかといえば、そんなことはないでしょう。

 あるいは作者の意図には反しているかもしれませんが、それはひとつの豊穣な「読み」の可能性を示しているわけです。そのわずかな日付のずれをめぐってそこまで読めるということ、そのことそのものが「ロリータ」という作品の価値を示している。

 今回のぼくの「読み」は、今週号の「マガジン」が発売されたらすぐに事実にそぐわなくなるかもしれない。それはそれでかまわないと思います。

 かってに自分のなかに作品の理想像を作り上げてしまって、それにそぐわないとなると失望する、といった「読み」はもともとあまり好きではない。

 ただ、この時点ではこういう「読み」も可能だった、ということはいえると思うのです。

 作品の主題的な側面にばかり光をあててしまったようですが、高尚なテーマを設定するだけなら誰にでもできます。世界平和だろうが、理想国家だろうが、なんだって掲げるだけならたやすい。それを物語のなかでどう表現するかが作家の腕の見せ場なのです。

 ぼくはべつに「〈ネギま!〉はただの萌え漫画じゃない!」と主張したいわけじゃないんですよね。むしろ、「ただの萌え漫画であると同時に、こういう読み方をすることもできる」と言いたい。

 そういえば、最近出た「ニッポンのマンガ」という本のなかで、夏目房之介さんがおもしろいことを言っていました。

 「やおい的な読み方をする読者はバイリンガルである」というのです。つまり、一般的な漫画の読み方と、やおい的な読み方、両方できるのだと。

 この表現はわかりやすい。「萌え」や「やおい」というものは、どちらもそれなりに歴史があるとはいえ、漫画そのものの経歴と比べれば比較的あたらしい「読み」の方法論です。

 スタンダードな「読み」*1を重視する向きには、これらは従来の漫画の「読み」を突き崩していくもののように思えるかもしれません。

 しかし、たぶんそうではない。こういったあたらしい「読み」は、漫画の読解により豊かな地平をもたらす可能性がある。

 もちろん、キャラクターの魅力に耽溺する余り、物語や表現の魅力を軽視してしまうようでは困る、ということはいえると思います。

 しかし、現実に〈ネギま!〉のような作品が出てきていることを思うと、案外、先行きはそう暗いものでもないのではないでしょうか。

*1:スタンダードとされる「読み」が本当にそうであるかにも疑問があるが、それは今回は措く。