文盲 アゴタ・クリストフ自伝

文盲 アゴタ・クリストフ自伝

 「悪童日記」の作者、アゴタ・クリストフの自伝。

 薄い本である。まあ、そもそも自伝なんてそれほど厚くなるものでもないかもしれないが(もっとも、アイザック・アシモフの自伝は分厚いハードカバーで4冊ぶんもある)、それにしてもこれは飛び切りの薄さといっていいだろう。

 訳者あとがきまで含めても、一冊、わずか110ページ。本文は90ページ弱しかない。おまけに1行が33文字しかないので、たぶん原稿用紙に直すと80枚程度しかないのではないだろうか。30分もあれば楽々と読み終えられるという、ある意味、非常にめずらしい本である。

 とはいえ、その内容は重い。

 非凡な作家が非凡な人生を送っているとはかぎらない。ごく平穏な日常のなかに暮らして終わった天才もいるだろう。

 しかし、神はアゴタ・クリストフに波乱の人生を与えた。かれは運命を操り、彼女を激動のヨーロッパに放り出して、「敵語」しか通じない国へと追いやったのである。

 そして彼女は、「敵語」を用いて書いた「悪童日記」で、世界的な注目を集めるベストセラー作家にまで成り上がる。

 現在、「悪童日記」は33もの言語に訳され、続編とあわせて20世紀文学の重要な収穫と目されている。彼女は成功したのだ――大きな犠牲を払って。

 母国語ではない言語で小説を書いた亡命作家と言うと、ぼくはナボコフを思い浮かべる。だが、訳者あとがきによると、ロシアの政治家の息子で、幼い頃から家庭教師をつけて英語を勉強していたナボコフと、貧しく育ったアゴタ・クリストフでは事情が異なると言う。

 たしかに彼女の人生は、蝶とチェスと文学に耽ったナボコフの人生ほど優雅に見えない。まるで「世界名作劇場」もかくやという辛い出来事が続く。

 しかし、その波乱万丈の人生経路にも増してひとの読むひとの心を打つのは、言葉と読書に対する愛情、そして飢えだろう。

 「わたしは読む。病気のようなものだ。手当たりしだい、目にとまるものは何でも読む」という女性が、読む術を奪われたのだ。その苦しみは想像に余る。

 思わず、もしぼくだったら――とかんがえてしまう。とても耐えられなかったことだろう、だが、耐えるしかないのだ。

 そして彼女はさいごには読む術を取り戻す。

 読むことができる。ふたたび読むことができるようになった。ヴィクトール・ユゴーも、ルソーも、ヴォルテールも、サルトルも、カミュも、ミショーも、フランシス・ポンジュも、サドも、フランス語で読みたいものはすべて読むことができる。フランス語作家以外でも、翻訳で読むことができる。フォークナーも、スタインベックも。この世界は本に、ついにわたしも読み取ることができるようになった本に満ち満ちている。

 読める。それはなんという歓喜であることか!

 この本は、ある種のひとにとっては全く他愛ない内容かもしれない。その一方で、べつの種族に属すひとにとってはまさに感動的な名著である。そして、ぼくは、あきらかに、後者に属する。読むことに憑かれた人間に。