わが新潟市にもフィルムが回って来たと耳にしたので、細田守監督の「時をかける少女」を見に行ってきた。上映期間はわずか2週間、この機会を逃がすと実物を見るのは来年のDVD、ということになりかねない。

 あまりにも世評が高い作品だから、見る前はいつものごとく天邪鬼を発揮して、「ちょっとみんな、褒めすぎなんじゃない? シャシンってものはもっとさあ」といやみな長広舌を叩くつもりだったのだが、実物を見てあっさり陥落。これは良い物だ!

 実写版の「時かけ」になんら思い入れがないぼくも、終始、わくわく、どきどき、はらはらしながら画面に見入ることができた。

 良い映画では観客のあいだでシンクロ現象が発生する。同じところで笑い、同じところで泣き、同じところで緊張するのだ。

 この映画の場合、さすがに泣いているひとは見かけなかったけれど、主人公の真琴がタイム・リープしては転げまわる場面では、しょっちゅう笑い声が起こっていた。製作者側にしてみれば、計算通り、というところではないか。

 しかし、だからといって計算高い作品を想像してもらっては困る。この映画、じつは非常にゆるい作品である。脚本的にもゆるゆる、作画的にもゆるゆる。

 今回の「時かけ」では、キャラクターデザインには貞本義行を起用しているのだが、あの秀麗な貞本デザインが、とにかくよく崩れる。

 また、漫画的表現を多用する個所も多く、高い世評から端正な画面を期待して映画館へ足を運んだひとがいたら困惑するかもしれない。しかし、そもそも当初の上映館数予定はわずか6館だったという低予算映画、そんなにかまえて見るようなものでもないのだ。

 また、物語的に見ると突っ込み所が多く、あとでよくかんがえてみるとこれはおかしいのでは、と思われる個所がいくつもある。

 いろいろ調べてみたところ、ここらへんは製作側もわかったうえであえていきおいを優先したらしい。その選択は正しかったと思う。この映画の前半はとにかくよくできたコメディだ。

 だが、物語が進むにつれ、そのゆるゆるの画面と物語が、次第に緊張感を増していく。

 いくらSF的な問題点は多くても、決していいかげんな脚本ではない。幾度も時をさかのぼっては同じ場面をくりかえす展開は、細部までじつに丁寧に計算されつくされていて、観客を否応なく物語へひきずりこむ。

 作中、真琴は偶然から時をかける能力を手にいれる。彼女はその便利な能力をつまらないことに乱用しては悦にいる。

 しかし、かんがえてみれば、時をかけることができるということは、神にもひとしい権力を握ることでもある。

 いやなことがあればいくらでもやり直すことができるのだから、望まない展開はすべて回避できる。気に食わないことがあれば、過去に戻ってやり直せばいい。その気になれば自分の思うとおりに歴史を操作できるだろう。

 だが、それは、なにが望ましい展開で、なにが回避すべき展開なのか、自分で決めなければならないということでもある。はじめ好き勝手に時間をいじっていた真琴は、やがて時を操ることの重さに打ちのめされていく。

 とはいえ、そのままで終わる彼女ではない。恋するひとへの思いをこめて、彼女はひとり時をかける!

 高らかに流れる主題歌とともに、真琴がさいごのタイム・リープを決行する場面の高揚感は素晴らしいのひとこと。映画だなあ、としかいいようがない。

 映画史にその名を刻むほどの名作だとは思わない。ただ、見たものの心に、忘れがたくその影をのこすチャーミングな佳作だとはいえるだろう。

 とにかくあと味は最高だし、デート・ムービーにもぴったり。もし近くの映画館で上映していたら、見に行っても損はない作品に仕上がっていると言っておこう。

 それにしても、いまさら言っても詮無いことではあるが、つくづくこの監督に「ハウルの動く城」を撮らせてみたかった。おそらく躍動感あふれる宮崎映画の代わりに、もっとあたたかく朗らかな作品が生まれていたことだろう。

 それが未完成で終わったことは、惜しい、としか言いようがない。とはいえ、真琴もさいごには悟ったように、人生は一度きりだからこそ素晴らしいのだ。

 ぼくらは幻の「ハウル」の代わりに、いま、「時かけ」を見ることができる。細田版「ハウル」が完成していたら、この映画はなかったかもしれないのだから、たぶんそれで良いのだろう。

 幻の傑作を惜しむより、いまここにある作品を愛することにしたいと思う。