「猫は勘定にいれません」のこの記事を読んでかんがえたことを書いておく。

 該当記事は、最近話題になったある募金問題に絡めて、募金全般への違和感を綴ったものだ。しかし、僕はその問題にかんしては詳しく知らないから、かるがるしく賛否を述べることはしない。

 だから、ここではただ、「愛」の話をすることにしよう。愛というと、なんだかばら色の妄想のことが思い浮かぶ。しかし、ここで語りたいのは、男女の愛のことではない。それも含めた、もっと大きな、人間の「業」のことだ。

 以前からこの日記を読まれている方は、ぼくが以前、妊娠中絶問題を取り上げて、いろいろと語ったことを憶えておられるだろう。また、最近、動物愛護問題について書いたことはご記憶にあたらしいところだと思う。

 妊娠中絶問題にかんしては、ひとつには問題の発端であるid:Leiermannさんがはてなを辞めてしまったこともあって、現在、中断している。

 これらの話と、募金問題とは、なんのかかわりもないように見えるかもしれない。だが、ぼくにとってはどれも同じひとつの問題の断面図なのである。それらはすべて生命とその値打ちにかんする問題なのだ。

 妊娠中絶問題では、当然、胎児の生命の値打ちが議論の俎上に乗せられる。はたしてその重さは母親の権利を上回る価値をもつものなのか否か。

 動物愛護問題では、動物の命が問題となる。はたして、ひとならぬ動物の命には、どれほどの価値があるとかんがえるべきなのか。

 そして、募金問題では、そうやって金を集めて救おうとしている患者の命の値打ちが問題となる。その患者の命には、おなじように救済を待つほかの命より救われるべき理由があるのだろうか、と。

 ここでは、とりあえず、さいごの問題に話を絞って語ることにしよう。

 あるひとりのために資金を募り、その金を利用して手術を行うということは、あきらかにその個人の命を特別視する思想を背景にしている。

 それが自分の子供だとすれば、ようするに、ほかの恵まれない子供よりさきに、わたしの子供を助けてください、そのためにあなたのお金をください、と言っていることになる。

 わがまま、といえばそうもいえるだろう。だから、おそらく、無数にいる難病のこどもたちのなかで、なぜお前の子供だけが助かる資格があると思うのだ、と問うことは正しいと思う。

 そもそも、世の中には、その子供よりも、もっと悲惨な、もっと不幸な境遇に置かれている子が沢山いるではないか、と問い質すことも、たぶん間違えてはいない。

 しかし、同時にいえることは、その親にしても、そんなことはわかっているだろう、ということである。

 たしかに、客観的に見れば、日本で手術を待っている子供も、北アフリカで一本の予防注射がないばかりに苦しんでいる子供も、同じひとつの命、どこにも差はない、ということになる。

 しかし、それはたとえ正論ではあっても、事実として病に苦しむわが子を見守っている親を説得することはできないだろう。かれらにしてみれば、どこか遠くの会ったこともない他人の命よりも、やはり目の前のわが子の命のほうが重く感じられるのである。

 それは個人のエゴイズムに過ぎない、と指弾することは容易い。しかし、ここで問題にするべきなのは、その正しさがどの程度個人を説得しうるか、ということではないだろうか。あるいはこう言い換えてもいい。ひとはどのくらい正しさに殉じられるものだろうか、と。

 目の前で高熱に苦しみ、死の恐怖に怯えるわが子も、どこかの他人の子供も、どちらも同じ命、その重さに差があるはずがない、そう理屈ではわかっても、感情は必ずしもその正論をうべなわない。

 その感情、それはたしかに、わがまま、ではある。しかし、そもそもある命のことをほかの命より価値があると思い込むこと、それが愛するということなのではないか。

 愛とは、差別なのである。したがって、平等にすべてのものを愛するなどということはありえない。すべての命は平等に価値がある、と言うことは、じつは、すべての命には平等に価値がない、と言うことと等しい。

 だから、ぼくは、自分は命を大切にしている、と簡単に言うひとのことはあまり信用できない。どの命を大切にしているのだ、というその基本のところがぽっかりと抜けているからだ。

 そのひと言を背景にした思想も発言も、すべて薄っぺらく思える。そこには、愛がないように思う。