一定以上の活字中毒者にはそういう人間が少なくないだろうが、ぼくも小中学生時代は時間が空くと図書室にこもり、ひとり孤独に読書に励むこどもだった。

 仲間内で楽しく騒いでいないとつまらないというたちのひとには、その光景は寂しげなものに見えるかもしれない。しかし、読書人の常として、ぼくも孤独はきらいではなかった。

 読書には必ず孤独がつきまとう。音楽の感動を共有することはできるだろう。映画の興奮を共有することもできるだろう。しかし、読書の喜びは決して共有できない。ひとりその世界に沈んでいくしかないものなのだ。

 だが、たとえひとりで本を読んでいるように見ても、心のなかでは世界中を、そして世界の外までも旅してまわっているのである。寂しいはずなどなかった。

 その頃はそんなことはかんがえもしなかったが、この世に役に立たない知識というものがあるとしたら、そのときぼくが本から得たものこそまさにそれだっただろう。

 なにしろ、小学校にも中学校にもそのことについて対等に話ができるひとはひとりもいなかった。よほど運が良くて、その後に同好の士を見つけられないかぎり、それはまるで役に立たない知識として終わるはずだった。

 しかし、約10年前、突然にインターネットの時代がやってきた。その世界にはぼくと同種の人間がいくらでもいた。信じがたいことに、ぼくはおなじ趣味をもつ仲間を見つけることができた。さらに信じがたいごとに、そのなかで友人を作ることすらできた。

 なんの役にも立たないまま終わるはずだった知識たちは、かれらとつながるために大いに役に立った。これはいったいどういうことなのだろう?

 このブログを読んでいるひとのなかには学生の方もおられるだろう。そんなひとは、学校で勉強しているときに、「こんなことを学んでなんの役に立つのだろう?」と感じるかもしれない。

 しかし、将来なにが役に立ち、なにが役に立たないか、予想することは困難だ。思いもかけない知識が意外なところで役に立つことが、現実にいくらでもありえる。

 つまり、人生とは、「いまは何にも使えないが、いつか役に立つかもしれないもの」をひたすら集め、なんとかその利用法をさがしていくプロセスなのだと思う。

 「いま確実に役に立つもの」はその使用目的が見えているから、そちらのほうに惹かれるひとは多いだろう。しかし、人間の人格の奥深さとは、結局、すぐには役に立たないものによって形づくられるものなのではないか。

 それは、いざというとき、ものごとに柔軟に対処できる能力となってあらわれてくる。

 あるいは、ただ目の前の問題を解決しつづけられればそれでいい、というひとには、「役に立たないかもしれないもの」は不要のものかもしれない。

 だが、それでは、予想外の問題が立ちふさがったときに困ることになるだろう。そして、生きていればかならず予想外の問題に出くわすものなのである。

 だから、小説を読んで時間をつぶすことは、一見無駄に見えても、意外に悪くないことなのだ。と、言い訳して、きょうも本を読むぼく。