Dear,こげんた―この子猫を知っていますか?

Dear,こげんた―この子猫を知っていますか?

 「Dearこげんた」

 それはある男によって嬲り殺しにされ、インターネット上でその様子を流された子猫「こげんた」を巡るサイトである。

 はじめて見つけたときから数年、ぼくはしばしばこのサイトの存在についてかんがえてきた。

 あきらかに善意から生まれたサイトである。ネットに数多くある悪意から生まれた醜悪なサイトとはわけが違う。しかし、それでも、このサイトのやりかたには納得できないものを憶えた。

 こう書くことは善意で活動している人びとの心を傷つけることになるかもしれない。しかし、それを承知でいうなら、ぼくにはその活動がどこか歪んだものに思われたのだ。

 本書はそのこげんたにまつまわるさまざまな反応を一冊にまとめた本。この本を読んで、ぼくはあらためて思った。やはり、こげんたを巡る物語には、どこか歪んだものを感じずにはいられない、と。

 こげんたの名前が有名になったのは、その死後のことである。インターネットは悪意の吹き溜まりでもあるが、善意の中継地点でもある。このあまりにあわれな子猫に対し、さまざまなひとたちが同情の声を寄せた。

 多くの詩や画像や文章や、そして人形の写真までものが寄せられた。そして、こげんたの存在はヴァーチャルになっていった。

 この本の著者のなかに、生前のこげんたを知っているひとはいない。したがって、この本のなかのこげんたは、ほとんど架空の存在である。

 かれらは、こげんたの「内面」をこんな風に想像していく。

ママをさがして7こくらいよるをすごした。。

ママはぼくがきらいになったのかな?

ママはどこへいっちゃったんだろう。

すてられたの?

おなかがすいてぺこぺこになった。

しかたがないから ゴミすてばにいたんだ

そしたら

おにいちゃんがきて ぼくをいえにつれていった

あたらしいおうちだとおもって

とっても うれしかった。

おいしいごはんもくれたのに、、

なんで?

なんでぼくのしっぽをきったの?

なんでぼくのあしをきったの?

ぼく いいこにしてたよね

なんのために ぼく うまれたの?

 なるほど、泣かせる文章である。しかし、はっきりいうなら、これは本物のこげんたとはなんの関係もない、ただの観測者の創作である。

 人間と違って、動物はことばを喋らない。したがって、内面を語ることもない。運命のその時、こげんたがなにをかんがえていたのか、それは永遠にだれにもわからない。

 だが、きっと人間を心から信じていたに違いない、その信頼を裏切られて哀しかったに違いない、と想像するひとはいて、それは瞬く間に事実とすりかえられていく。

 そしてこげんたはヴァーチャルな存在と化した。実在の人間と異なり、ヴァーチャルな動物は決して人間を裏切らない。人間の幻想を壊すことはない*1

 じっさいに目の前にいる猫なら、時にはその身勝手さにうんざりさせれることもあるかもしれない。しかし電子の猫は人間の期待を壊すような真似をしない。だから、その存在は、どこまでも純粋に、無垢に、無邪気に成長していく。

 こんなことを書くぼくは無情だろうか。ぼくもまた、可哀想なこげんたのために涙を流し、同情するべきだろうか。

 しかし、ぼくはいまだに動物を殺すことがそんなに悪いことなのか確信をもつことができない。なるほど、ゆっくりと猫を殺していくなんてひどい話だと思う。

 だが、すべての生き物が平等だというのなら、猫の健康を保つためにのみは駆除することはどうなのだ。あれはひどくないのか? なにより、このようにして生まれた感傷の行き先が心配なのである。

 こげんたに対する同情と感傷はどこへ行くのだろうか。当然、こげんたを殺した社会への批判へと結びついていく。

 「なぜこんな陰湿な事件が起こる社会になってしまったのだろう」と著者は書く。しかし、この種の「陰湿な事件」は動物愛護なんて精神がなかった昔のほうがより多く起こっていたのではないか。

 ただ、昔はインターネットなんてものがなかったから、その情報が共有されることがなかった。ただそれだけのことかと思う。

 以前に比べてはるかに減少した少年犯罪が、マスコミにくりかえし取り上げられることによって、あたかも多発しているかのような印象が社会に植えつけられる、そのプロセスと基本的には同じことである。高度情報化社会の副産物だ。

 「時の流れも君が生きた証を消せはしない」と題したあとがきにあたる文章には、こんなことが書かれている。

こんな話をご存知だろうか?

ある時、飼っていた犬が死んでしまった。

それを見た子供が

「お母さん、電池取り替えてよ」。

事の重大さに、気づいて頂けただろうか?

 ざんねんながら、ぼくには「事の重大さ」はわからないようだ。どこかの子供が「電池取り替えてよ」と言ったという話、それはありがちな都市伝説に過ぎないではないか。

 その子供は、本当に実在するのだろうか。実在するとして、どこに住んでいるだれなのだろう。どうやってその話は広まったのだろうか。

 ぼくは、たとえば「ゲーム脳」による「いまどきのこども」批判に共感できないのと同じ理由で、この現代社会批判にも共感できない。時には感傷より理性を優先させる必要があるのではないだろうか。

 親愛なるこげんた。かれは人間の暴力によって死んでいった。そのこげんたに対し、同情が集まるのは自然なことだと思う。

 しかし、だからといってその存在をどこまでも美化し、「歪んだ現代社会の犠牲になったかわいそうな子猫」のイメージを無限に拡大していくことは、それこそ歪んでいるように思えてならない。疑問の余地のない善意は、時として悪意よりもっと危険なのではないか。

 動物虐待が問題ではないというのではない。ただ、「可哀想だからやめろ」というのとは違う次元でロジックが組み立てられるべきだと思うのだ。

 ぼくらはだれも皆、ほかの生き物の命を奪ってのみ生きていくことができる。その事実から目をそむけた動物愛護は、動物愛護の名にあたいしないと思うのである。

 ちなみにこの本、Amazonには62のレビューが寄せられていて、四つ星がみっつ、三つ星がひとつあるほかは、すべて五つ星の最高評価である。

*1:Amazonでこの本のレビューを読むと、「犯人を死刑にしろ」といった論調が少なくないことに気づく。まるで猫の命のほうが人間の命よりずっと重いと感じているようだ。これはヴァーチャル化した猫が人間の期待を裏切らないのに対し、人間は時に醜悪な内面を垣間見せるからだと思う。