自分でも書きこんでみたのだが、「烏蛇ノート」9月30日のエントリのコメント欄でくりひろげられている議論が興味深い。

 宮台氏の発言を受けて、「本当なら、「他者性に開かれること」そのものの必要性と快楽とを語るべきであり、性愛的コミュニケーションはその選択肢の一つに過ぎない、とすべき」と語るid:crowserpent氏に対し、id:sho_ta氏は「そもそもいま、「他者性に開かれること」自体がエサにはならないことが問題になっているのではないでしょうか?」と疑問を投げかける。

 鋭い指摘だと思う。「他者なんていらない」といい、ひたすら自分の世界だけに没入する個人に対して、ぼくらはどのように接するべきか?

 とはいえ、じっさいには完全に他者との関係を絶っているオタクというものは、ほとんど想像できないのではないだろうか。

 たとえば、PCショップで恋愛ゲームを買い、自宅でプレイし、インターネットに感想を上げ、中古屋に売りに行く、それだけでじゅうぶん社会とコミットしている。

 オタクとは、消費活動を通じて経済社会に参画し、またオタク趣味を通して他者とコミュニケーションしていくことができる、立派な社会の一員である。

 これに対して、より内向的なのが、いわゆる社会的ひきこもりである。「ひきこもり」と「オタク」は、よく混同されるが、じつはまったく違う問題だ。オタクというかたちですら社会にコミットできなかったひとがひきこもりになるのだ。

 それでは、ひきこもりの人間は完全に社会とのコミュニケーションを放棄してしまっているのだろうか。自分の部屋を城と捉え、そこを占拠することだけで満足しているのだろうか。

 もし本当にそうなら、他人がどうこう言うことでもないかもしれない。経済的問題などはつきまとうだろうが、そのことさえ解決できてしまえば、それはそれでひとつのライフスタイルといえるだろう。

 オタクが自宅で他愛ない恋愛ゲームに耽っていてもだれに後ろ指さされるいわれもないのと同様、他者を拒絶して自宅にこもったところで非難される理由もない。

 しかし、現実にはそのような例はやはり極小にとどまるだろう。多くのひきこもりは、社会参加の必要性と他者への恐怖の板ばさみになって苦しんでいるはずだ。

 このようなひとに対しては、やはり周囲の協力が必要になってくると思う。とはいえ、当人に対して、ひたすら「外へ出ろ」と強要することは暴力的である。どのようにしてひきこもり当人の社会参加欲を刺激するか、それは非常にむずかしい問題だと思う。

 斎藤環は「オタクになればいい」と言うが、それすら困難なひとは少なくない。

 しばしばオタクは自分を社会の最底辺と見なして自嘲する。だが、かれらは自分が社会参加欲を 幸運な人間であることを自覚するべきだ。

 だれもが簡単に「萌える」ことができるわけではない。それはひとつの貴重な能力なのである。