ところで、この件にかんしては、id:crowserpentさんのこのエントリがおもしろかった。

 ぼくはひと並みはずれて物語を好むオタクだが、我を忘れてその世界に耽溺するほどに、「いったいぼくはなんでこんなものが好きなんだろう?」という疑問が浮かんでくる。

 そこで、時々、この場でも、ぐるぐるぐるぐるかんがえたりしているわけだが、なかでも、絵や文字から構成された「キャラクター」は、なぞに満ちた存在だ。

 リアルな人間と比較して、貧困な情報量しかもたないことはあきらかなのに、どうしてそんなものに感情移入できるのか?

 それは、ひとつには、キャラクターとは、作者の理想、人生観、世界観など、あらゆる情報をパッケージングされた存在だからだろう。

 優れたキャラクターは現実の人間以上に奥深い内面をそなえているように見える。

 2次元の美少女は現実の女みたいに裏切らない、なんて嘘だ。というか、そういうことをいえるひとは、そういう作品しか知らないのだろう。

 ぜひ「シンフォニック=レイン」でもプレイして、痛烈に裏切ってもらうといいと思う。

 一般に、優れたキャラクターほど、ユーザーの予想を上回る多面性をもち、その多彩な表情でユーザーを惹きつける。

 以前にも書いたが、時にキャラクターは、現実の人間とおなじように、「他者性」をそなえているように見える。そうでなければ、フィクションで感動したりするはずがない。

 しかし、それと同時に、フィクションのキャラクターを現実の人間とまったく同じようにかんがえることができないことも、自明である。

 たとえば、現実の「他者」の内面はひたすら想像するしかできないが、キャラクターの内面は描写されることがありえる。

 そういう意味では、キャラクターとは、「わたし」ではないことはたしかだが、完全な「他者」であるともいいきれない、中途半端な存在だといえる。

 id:crowserpentさんによると、キャラクターと現実の人間との決定的落差は、「偶発性」の有無にあるという。これを、蛮勇を発揮してぼくなりに言い換えてみると、こういうことになる(と思う)。

 フィクションのキャラクターは、作者の手に拠る物語のプロットに従って発言し、行動する存在である。したがって、ぼくたちはそのキャラクターを、立体的に、全体的に知ることができる。

 たとえば、かれ/彼女が過去にどんな体験をして育ってきたのか、どんな辛い目に遭い、どんな風に乗り越え、そして、どのようにして死んでいったか、ということまで(場合によっては)知ることができるわけだ。

 これに対して、ぼくたちが現実世界と「他者」について知ることができることはわずかである。長年連れ添った夫婦ですら、あいての過去や内面を本当の意味で知ることはできない。

 ぼくたちはそのわずかな情報を鍵にしてどうにかこうにかコミュニケーションしていることになる。

 現実と虚構の境い目は、どうやらそこらへんにあるらしい。「いったいぼくはなんでこんなものが好きなんだろう?」という疑問も、一歩前進だろうか。