- 出版社/メーカー: Symphony
- 発売日: 2005/04/22
- メディア: CD-ROM
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どうも、こんにちは。周囲からの揶揄、冷笑、嘲弄、面罵にもめげず、きょうも「お嬢様組曲」を続けているid:kaienです。特におもしろいわけでもなんでもないんだけれど、途中までやるとやっぱりさいごまで見とどけたくなるよね。
こういうことは小説や漫画でもよくあることです。でも、漫画なら一冊数十分、小説でも一冊数時間もあれば読み終わるのに対し、ゲームは数十時間の拘束を余儀なくされるのが困りますね。
まあ、だれかひとり(たぶん姫名子さん)のシナリオを終えたらやめるつもりなので、おそらく何十時間という単位にはならないと思いますが。
そういえば、ネットではなにやら宮台さんの萌えオタ批判が話題となっているようです。ちらっと目を通したところ、特に独創的なことも言っていない、むしろ「萌え」批判のテンプレ的な内容だと感じました。
ようするに、おまえら、家にこもってゲームばっかやっていないで、現実の女の子と向き合えよ、ということなんだと思います。
ひまがあれば家にこもってハァハァしているぼくのような人間へ向けたメッセージなのかもしれません。でも、なにか根本的なところで認識のずれがある気がする。
べつに現実の女の子と向き合えないからゲームで萌え萌えしているわけじゃないですよ? ぼくはあるキャラに萌えることが擬似恋愛に相当するとか、恋愛ゲームが現実の恋愛体験の代替物だと思ったことは一度もないですね。そういう認識が広まっていることがふしぎ。
べつに自己承認をもとめているわけでもないと思う。もっとも、はたから見てそんな風に映るということは理解できる。ぼくもじっさいにプレイするまではそんなものだろうとかんがえていたから。
また、承認欲求を満たすためにゲームをしているというひともじっさいにいるとは思います。どちらかといえば、そちらのほうが多数派かもしれない。でも、ぼくは違う。
そういう要素がゼロだとはいわないけれど、やっぱりそれはぼくの実感とは違いすぎている。ようするにぼくはあるキャラクターを好きになりたいのであって、好きになってほしいんじゃないんですね。
たぶん本田透さんあたりは好きになってほしいんだろうな、と思います。「電波男」はあきらかにそういう論旨で書かれていますから。
ここらへん、id:izuminoさんが日記に書いていた「愛し萌え」と「愛され萌え」という概念で説明できると思います。
「愛され萌え」とは、ぼくは当事者じゃないからよくわからないけれど、「自己承認萌え」なんでしょう。ある架空のキャラクターに擬似的に自分を愛してもらうことに萌える、と。
でも、「愛し萌え」派のぼくは、基本的にそのキャラクターを観察して、好きになることだけで満足できるタイプなのです。べつに自分のことはどうでもいい。
だから、幼稚な自己承認欲求がうんぬんなんていわれても、どうもぴんと来ません。ぼくは他人が恋愛したり、冒険したり、葛藤したり、苦悩したりするのを横から眺めるのが好きなだけなのです。