ぼくが「濃さ」という尺度に違和感をもつのは、それがどこまでも数量化可能な概念として捉えられているからかもしれません。

 リンク先の文章では、いつだって濃いひとのほうが正しい判断をするし、よくその世界をわかっている、という前提で書かれている。

 でも、ここまで価値観が多様化したなかで、はたして多少「濃い」からといって、その人間の言うことのほうが正しいと断定できたものでしょうか。

 ここでようやく二階堂さんの話題とつながるのですが、二階堂さんは、ミステリ全般にかんして、あきらかに「ライトオタク」ではない。十分に「濃い」オタクです。

 自分でもそう思っているようだし、客観的に見ても、その知識は相当のものだといえると思います。

 有栖川有栖、小森健太郎芦辺拓二階堂黎人の四氏が海外の本格推理について語った「本格ミステリーを語ろう! 海外篇」という本があるのですが、この本を読むと、四人とも本当によく読んでよく憶えているものだな、と感心させられます。

 二階堂さんに間違いがあるとすれば、それはあきらかにかれが「薄い」から犯したものとはいえないわけです。むしろ、かれの問題は、まさにその教養があることそのものだったのではないでしょうか。

 より正確にいえば、自分はミステリについてよく勉強していて詳しく知っている自負こそが、かれの目を曇らせる結果に繋がっているように思うのです。必ずしも「濃い」人間が正しいとはかぎらない、ということ。

 とはいえ、もちろん、岡野さんの危機意識もわからないわけではありません。

 たとえば、読書オタクのなかでは、「ベストセラーしか読まないような一般読者」はしばしばばかにされる傾向にあります。

 「セカチュウ」を読んで泣いているような奴らは良い本のことなんてなにもわかっていない、そういう連中ばかりだから良い本が売れないんだ、と。

 これは「濃いオタク」が「ライトオタク」を見下す構図によく似ている。でも、ぼくは「セカチュウ」読んでわんわん泣いたってべつに非難されるようなことじゃないと思います。

 そんな連中が出版業界を腐らせていくんだ、とも思わない。それはそれで、そのひと固有の読書体験なのであって、他人がどうこう言うことじゃないんじゃないかな。

 ただ、もしそのひとが望むとき、もっと豊穣な読書の沃野へ出向くこともできるようになっていればそれは良いことだし、そのための道は整備されているべきだとは感じる。

 北風と太陽、みたいなものですね。いくら「もっと勉強しろ!」といったところで、「じゃあ、真面目に勉強しないと」と思うひとがそんなにいるとは思えない。むしろ、自然に勉強したいと思わせるように仕向けることのほうが大切なんじゃないか。

 もちろん、そうしても市場からライトな人間が駆逐されるなんてことはありえません。ライトな人間もディープな人間もいる状況を受け容れて、いかにそのあいだでコミュニケーションをとっていくか、ということが今後の課題だと思います。

 ものすごい長文を読んでもらってありがとうございました。