ちょっとしつこすぎるかもしれないけど、二階堂黎人氏の「本格評論の終焉」が完結したので、また少しだけ。

 ぼくはこの件に興味をもち、かれの意見に対する各地の言及を読んでまわっているのだが、二階堂論に賛成するひとはほとんどひとりも見かけない。

 ことの正否を多数決で決めるわけにいかないこともたしかだが、まあ、非常にあやしげな意見であるということはできるだろう。

 しかし、ぼくがたびたび二階堂氏の発言を取り上げるのは、ただ言葉尻をあげつらってばかにしたいからではない。

 そうではなくて、いったい二階堂氏とほかの論者とのこの話の噛み合わなさ、ディスコミュニケーションはなんなのかと興味深く思うからなのだ。

 たしかに、ぼくも新本格の作品を正確に理解し批評するためには、それ以前の本格作品の知識が必要だとは思う。綾辻行人の「十角館」をはじめとする新本格の名作には、あきらかにそれ以前の作品の影響が垣間見える。

 これは新本格が特にそういうものだというより、推理小説そのものが本質的にそのような文学なのだと考えたほうがあたっていると思う。

 密室、アリバイ、ミッシング・リンク――推理小説を構成するさまざまな要素には、それぞれに歴史と伝統がある。ポーやドイルがチェスタトンが生み出した基礎的なトリックを、さまざまな形で応用してきた歴史であり伝統である。

 その応用の連鎖は、ときに常識的な想像力の外部にまで到達し、麻耶雄嵩「翼ある闇」のような反リアリズム的傑作すら生み出してきた。

 この歴史性を踏まえずに本格を語れば、暗闇を灯りなしで歩くようなことにもなるだろう。

 しかし、ここでわきまえておかなければならないのは、同程度の知識、教養を持ち合わせていたからといって、同じ結論に至るわけではないということである。

 小説作品の評価とは、一生懸命勉強すればかならずひとつの結論にたどり着くという性質のものではない。そこにはかならず意見の相違、価値観の落差といったものが生じてくる。

 二階堂論の抱える最大の問題点は、これを認めないところにあるのではないか。

 過去作品に対する知識教養を重視する二階堂氏のミステリ論は、「オタクには上下がある」とし、「濃いほど偉いのだ」とした岡田斗司夫氏のオタク論に似ている。そして、似たような弱点を抱えていると思う。

 たとえば、岡田的オタク観を前提とした次のような若手オタク批判は、一面で非常に二階堂論に似ているように感じられる。

 主にライト層を中心としたヌルさの増加は、低いラインで「ヨシ」としちゃっているために、すでに情報も資料も山のように溢れているにもかかわらず「濃い方向の知識や行為」、原典などに全然興味を持たない。

 で、興味を持たないから知識がなく、その薄い意識の中で「薄いことにも気づかない」で主張している。

 似ていると思いません? ぼくはこの種の論理に多少の疑問を感じる。二階堂氏のように、あきらかに「濃い」ひとでもあからさまな誤謬を犯すことでもあるし。