物語は、ようやく序盤を通り過ぎたあたり。

 ずいぶん厚い本だし、ゆっくり読んでいけばいいや、と気楽にかんがえていたのだけれど、そういえば借りた本は返さないといけないのでした。すっかり忘れていた。

 たぶん、ぼく以外には予約をいれるひともいないだろうから、いったん返してまた借りるということもできますが、そんな真似をしていたら永久に読み終わらない気がする。ちょっと気合をいれて読みすすめることにしましょう。

 しかし、おもしろい。さすが「奇書」と呼ばれるだけあって、そのふしぎさは並大抵のものではありません。

 小説の骨格そのものはある意味でごく平凡な本格推理のそれなのですが、その素朴な骨格に膨大な衒学的情報が乗せられていて、さきの見えない迷宮世界を作り出しています。

 もっとも、いわれるほど難解だとも思いません。

 解説の澁澤龍彦が書いているように、「虫太郎のスタイルは、どちらかと言えば人工的であり、とくに『黒死館』のそれには妙なリズム感があって、ひとたびその大まかなリズムに乗りさえすれば、あの長い分量を比較的すらすらと読み通すことさえ可能なのだ」。

 はじめは少々てこずりましたが、どうやらぼくもようやくそのリズムに乗れたようです。お世辞にも軽いとはいいがたい内容なのに、意外なほどすらすらと読める。

 この作品が難解といわれるのは、作中にやたらとうんちくが登場するからでしょう。

 博学多才の探偵法水麟太郎は、物語の舞台となる黒死館を飾る柱ひとつ、鎧ひとつ見てもああだこうだとうんちくを垂れずにはいられません。

 これが京極夏彦あたりだと、さいごになればその高説は明確な意味をもち、一点に収斂していくことになるのですが、どうもこの小説ではさいごまでうんちくと事件はそれほど関係なく終わるらしい。

 その意味ではまさに「無駄」なうんちくなのですが、その無駄の厚みこそがこの小説の魅力なのでしょう。

 ここらへんはアメリカの作家ヴァン・ダインが生み出した名探偵ファイロ・ヴァンスの影響を受けているといいます(じっさい「黒死館」には法水をファイロ・ヴァンスにたとえる一節がある)。

 先日亡くなった中世史学者の阿部謹也は、その著書「日本人はいかに生きるべきか」のなかで、ファイロ・ヴァンスこそはアメリカの教養人の典型であると語っています。

 つまり、アメリカ人は、父なるヨーロッパの文化教養に対して根強い劣等感を抱いている。その劣等感から生み出されたのが、教養の塊のような趣味人のファイロ・ヴァンスだというのです。

 ただ、極東が生んだ天才小栗虫太郎の衒学趣味は、ヴァン・ダインの域をはるかにこえていて、その迷宮の超論理は、どこまでも読者を眩惑していきます。

 ですが、どうやらぼくのほうこそいらぬうんちくを傾けだしてしまったようです。ここらへんのことについては、全編を読み終えてからあらためて書くとしましょう。

 そして、ふたたび、やみのなかへ。