先崎学の浮いたり沈んだり (文春文庫)

先崎学の浮いたり沈んだり (文春文庫)

 先日読んだ大崎善生のエッセイがあまりにもおもしろかったので、つづけて将棋の本を読んでみる気になった。プロ棋士先崎学が「週刊文春」に連載した記事をまとめた本である。

 読んでみておどろいた。あれほどおもしろいと思った大崎氏の本よりもっとおもしろかったのだ。これはあきらかに将棋指しの余技という次元をこえている。本業のエッセイストでもなかなかこれほど抱腹絶倒の文章は書けないだろう。

 読んでいるあいだじゅうぼくは浮世の憂さから解放されて、それはそれはしあわせだった。活字の本を読んで腹をかかえて笑えるということはめったにない。稀有な名著といえると思う。いや、ほんとに。

 たとえば羽生善治が小学生あいてに百面打ちをしたという話をきいて、本人に「いや凄いねえ。頭も丈夫だけど足腰も丈夫なんだねえ。悪いのは性格だけ?」といったという話などは読んでいてにやにやしてしまう。

 天下の羽生三冠(現在)を前にして、なかなかいえないせりふであろう。まあ、ぼくらからみた羽生は平成の大棋士だけれど、先崎さんからみたらひとりの幼馴染みの将棋指しに過ぎないんでしょうね。

 この先崎学というひとは少年時代から天才として知られ、そのせいかどうか若い頃はそれは生意気だったらしいのだが、歳をとって毒が抜けたのかどうか、この本からはじつにあかるくユーモラスな人柄が伺える。

 さてここからは余談だが、本書の詰将棋の話のところでちょっとしたサプライズがあった。先崎が「詰将棋の世界では羽生に匹敵する天才」としてあげている名前のなかに、若島正の名前があったのだ。

 えっ。若島正って、あの若島正ですか。さっそくインターネットで調べてみたのだが、どうもあの若島正で間違いないらしいのである。

 と書いても知らないひとも多いだろう。若島正京都大学助教授で翻訳家、さいきんではウラジミール・ナボコフ「ロリータ」の新訳で話題になったひとである。

 ぼくにとってはシオドア・スタージョンの小説を格調高い文体で翻訳してくれるありがたいひと、ということになる。

 そういえば詰将棋チェスプロブレムをつくる趣味があるとなにかで読んだ気もするが、「羽生に比肩する天才」とまで謳われる腕前とは知らなかった。世の中、どこでつながっているのかわからないものですねえ。

 まあそれはあくまで余談だが、本当におもしろい本には違いない。将棋業界の内幕を覗けるたのしさはあるし、なにかかるいエッセイが読みたいというときにはおすすめの一冊、いや二冊である。

 この本を読んでぼくも少しそれじゃひとつ将棋を憶えてみようかという気になってきた。趣味をひとつ増やせば読書に費やしていた時間を割かなければならなくなるわけで、特に万が一ネット対局に嵌まったりしたら大変なことになるのは目に見えているのだが、それでも手を出してみたい気はする。

 まあ、ぼくはオセロをやってもろくに勝てたためしがないのだが。