「サーラの冒険」完結篇。

 第一巻「ヒーローになりたい!」から実に十五年の月日を経た最終巻である。ぼくはそれをリアルタイムで追いかけているので、中学生の頃からのつきあいということになる。

 いやあ、長かったですねえ。途中、何度ももう駄目かとも思ったけれど、あきらめず待っていてよかった。

 同様に未完のシリーズを抱えているあのひととかあのひととかあのひとにも、続刊刊行に向けて善処してもらいたいものである。

 さて、それでは、その待ちに待った最終巻の内容はどうなのか。うーん、まあ、こんなものかな。ふるえるような展開が待ち受けていた第五巻と比べると、どうしてもこの巻は事後処理の印象が強い。

 いや、おもしろかったんだけどね。おもしろかったんだけれど、やっぱりここに落とすのか、といった予定調和的な感触は拭えない。

 このシリーズの第四巻が出てから第五巻が発売されるまでにはおよそ十年間におよぶ空白がある。そのあいだ、作者が次の展開について真剣に考え、決断を下したことをぼくは疑わない。

 だから、この展開を予定調和と呼ぶのは失礼かもしれない。しかし、それをわかった上であえていうなら、この巻の内容にはやはりひとつの限界を感じてしまう。

 ぶっちゃけ、「ヒーロー(正義の味方)」というテーマなら「Fate/stay night」のほうがおもしろかった。もちろん、それは個人の好みが絡む問題ではあるし、一概にいえることではないのだが――。

 さて、このように特定の作家や特定の作品について評価が片寄るとき、誠実な評者なら作品ではなく自分の価値観を疑ってみる必要があるだろう。

 「アイの物語」を読んだときもそう考えたのだが、ぼくはこういった「素朴な善性」を備えた作品に対し、点が辛くなるきらいがあるかもしれない。

 どうもそういうものが好きではないらしいのである。かんたんにいえば、なんだこれ、ダサい、と思ってしまうんですね。

 たとえば小川一水の作品の評価が高くならないのも同じ理由だと思う。どうしてもその素朴な前向きさに胡散臭さを感じるのだ(もっとも、評価はもう少し客観的な尺度で付けている)。

 しかし、この評価は実に微妙なもので、たとえば「最終兵器彼女」の高橋しんなどは、どんな感傷的な物語のなかにもある種の酷薄さがあって、好きだ。ひとのいのちを紙のように軽く見る冷たい非情さ。

 いかにもサラリーマンご用達の大衆的な作家といった印象の司馬遼太郎池波正太郎といった作家にも同種の匂いを感じる。

 あるいは田中芳樹などでもそうだ。田中はいかにも素朴なモラリストに見えるが、時折り、素朴どころではない冷ややかな悪意が覗くことがある。ぼくなどはストーリーテリング以上にそこに惹きつけられるわけである。

 とはいえ、本当に素朴な作品がきらいならそもそも読まないはずである。だからまあ、好きなようなきらいなような、複雑な想いがあるんだろうなあ、きっと。たぶんそういうことなのだと思う。