涼宮ハルヒの憂鬱 1 限定版 [DVD]

涼宮ハルヒの憂鬱 1 限定版 [DVD]

 既にさかりは過ぎたかもしれないが、ネット上のアニオタ界隈では「新世紀エヴァンゲリオン」と「涼宮ハルヒの憂鬱」を比較検討する言説が流行っているらしい。

 曰く、「ハルヒ」は「エヴァ」を越えた。曰く、「ハルヒ」は「エヴァ」の掲げた問題に決着をつけた。曰く、「ハルヒ」は「エヴァ」に遠く及ばない。曰く、キモオタ死ね。

 さまざまな意見が乱立し、対立しあっている模様。詳しく知りたい方はここらへんからどうぞ。

 個人的には「ハルヒ」と「エヴァ」がそれほど似ているとは思わない。仮に似ているとしても、「超えた」「超えない」という比較にはあまり意味がないと思う。しょせんべつの作品だし、似てない点だってたくさんあるわけだしね。

 じっさい、ハルヒとアスカ、長門綾波が似ているというあたりはまだわかるとしても、古泉と加持なんて多少ポジションが近いという以上の近似性は感じ取れないと思うんだけれど、いかがなものでしょう。

 こういうことは多分に心理学的な問題で、「似ている」と思って見ていると似ているように見えてくるし、「違う」と思ってみていれば違うように思えてくる、ただそれだけのことなのではないかとも思う。

 TYPE-MOONが「月姫」を発表したときは「痕」のパクリだという奴がいっぱいいたんだけれど、いまはもうだれもそんなこといわないもんね。作品はなにも変わっていないのにさ。

 また、アニメ版「ハルヒ」の物語は(時系列がばらばらにされているはいえ)、原作小説にほぼ忠実なので、もし「ハルヒ」が「エヴァ」の問題を発展解消したというのなら、それは原作者を褒めるべきなんじゃないかと。

 最近、つくづく思うのだが、同時代の批評というものはいろいろな予断に毒されている。作品の真価とは発表から何十年も経ってはじめてわかるものなのかもしれない。

 きょう、天才あつかいされている作家や名作とされている作品でも、発表当時はいろいろいわれていたりするのである。

 さて、それはともかく、この論争を見ていてちょっと気になるのは、「エヴァ」が虚構を否定し、「現実に帰れ」というメッセージを発信していたことが、ほとんど自明視されていること。

 それが正しいとするなら、それ自体、ひとつの虚構作品である「エヴァ」は自己否定したことになる。しかし、本当にそうなのか。

 考えてみれば、「エヴァ」の世界で碇シンジが直面しなければならなかった試練は、大抵のひとの現実より過酷である。その時点で、「甘ったるい虚構」と「厳しく辛い現実」という対立項は意味をなしていないのではないだろうか。

 虚構を否定して辛い現実を生きるか、現実を否定して甘い虚構に浸るか、という二項対立で考えてしまう時点で、既に思考は袋小路に入っているのではないか、と最近のぼくは考えている。

 そもそも、そんなに簡単に虚構と現実をわけてしまえるものだろうか。なかなか根の深そうな話である。