萌えカルチャーと教養主義 その3 感性の時代


 じつは「オタク学入門」には、わずか数ページではありますが、美少女キャラクターについてふれた一節が存在します。

 そこで岡田さんはこういったキャラクターには「文脈」があり、それを把握しておくことが大切だ、という話をしている。しかし、ふしぎなことに、それではその「文脈」というものが具体的にどのようなしろものであるかは語られない。

 むしろそのような文脈とは、説明不要な、あるいは説明不可能なものとして捉えられているように読める。

 つまり、わかるひとにとってはあまりに自明なのに、わからないひとにとってはさっぱりわからない、そういうものであるということなのでしょう。

 しかもそれは時代時代によって瞬く間に移り変わっていく。それを捉えることができるのは、膨大な知識や執拗な分析ではなく、ある種の感性だと思います。

 まあ、ある作品を楽しむためにはそれなりの感受性が必要とされるという、あたりまえすぎるほどあたりまえの話なんですが*1

 ここから、「オタク」が死んだ時代、「萌え」の時代とは、即ち感性の時代だということもできるでしょう。ここにおいて、「濃さ」という尺度、あるいはヒエラルキーはもはや意味をなさない。旧世代から「薄い」と批判される新世代のオタクたちは、じっさいには薄いのではなく、「濃さ」に興味をもっていないのです。

 岡田さんに対しては、美少女ゲームやライトノベルを黙殺したという批判もあるわけですが、そもそも岡田さんが代表する世代の価値観では「Kanon」や「AIR」は語れないといったほうが正確なのではないかな。

 これらの作品はある意味、萌えカルチャーを代表する極北的傑作だと思いますが、緻密なプロットだの合理的解決だのを期待するかぎり、どうしようもない駄作でしかない。

 なにしろ山ほど矛盾があるし、辻褄はあっていないし、無駄も多い、しかし、強く感情に訴えかける力だけはある、そういう「感性の時代」の産物だからです。

 もちろんいまでもそういった矛盾や齟齬に対して、「こう考えれば矛盾しなくなる」と議論を行っているひとは存在する。

 しかし、そういったシャーロッキアン的行動は、「機動戦士ガンダム」の架空年表を作るのには役に立っても、泣きゲーの設定を補完するためにはたいして意味をなさないのではないと思う。「To Heart」や「Kanon」やはまだしも「AIR」なんて、どう考えたって矛盾だらけですからね。

 さて、そういうわけで「昨今のヲタクカルチャーや萌え文化」はオタク第一世代的の文化に比べると、非常に感性に片寄った文化であるわけです。そう考えると、べつの時代の感性の産物である「古典」とされる作品が受け容れられにくいのもしかたないのではないかと思うのです。

 もちろん、なにかのきっかけがあればその壁を超えられるかもしれませんが、それでも「ネギま!」から「アンナ・カレーニナ」に飛ぶのはなかなかむずかしいでしょう。この危機をどう超えるか、思案のしどころかもしれません。(おしまい)

*1:たとえば音楽を楽しむために感性が必要であることは、だれも疑わないだろう。それなのにオタク文化にかんしてはそれがほとんど無視されてきたという事実は、この文化の歪み、あるいは偏向を意味してはいないだろうか。