その6 ある胎児の一生

10月5日:

今日、わたしの命が始まりました。

わたしの両親はまだそれを知りません。

でもわたしはもう生きているのです。

わたしは女の子になります。髪は金髪で、瞳はブルーです。

ほとんどすべてのことがもう決められています。

わたしがお花を好きになることまで。

(中略)

12月28日:

お腹の中で自分が生まれたことを喜ぶ母の笑顔を夢見ながら眠ってるかわいい赤ちゃん

(おかあたんの・・・ムニャ・・・笑顔・・・ムニャ・・たのちみ)

そこへ、ペンチのようなモノを突っ込んで

必死で生きようと逃げる赤ちゃんの頭を

(お母たん、たすけて〜)

追っかけて、掴んで、潰して

(お……母……た……グシャ)

掃除機で吸って一丁あがり

今日、お母さんに殺されました。

―無名の胎児

 「妊娠中絶は殺人か?」第6回は番外編です。今回は中絶の是非の話ではなく、インターネットをうろうろしていて見つけた「ある胎児の一生」と題する文章について話してみようと思います。

 たぶん2ちゃんのコピペかなにかだと思うのですが、著作権者がいないともかぎらないので全文転載はやめておきます。全文を知りたい方はこちらでどうぞ。まあ、リンク先の文章も転載されたものですけど。

 さて、お読みになればわかる通り、これは「ある胎児の短い一生」をフィクション仕立てで描いたものです。

 これ自体はまあどうでもいいような内容ですが、リンク先で「この文章を読んで道徳に基づく考えができる方でしたら、容易に中絶などということはしないと思われます」と書かれているのが気にかかりました。

 いうまでもなく、ぼくはこういったポエムがなにかしら道徳について語っているとは考えません。あたりまえですが、これはじっさいの胎児についてなにかしらを語っている文章ではないわけです。胎児や中絶とはほぼなんの関係もない純然たるフィクションに過ぎない。胎児は喋りませんからね。

 ぼくはフィクションとしての出来もあまり良いとは思いませんが、問題はこのような文章をベタに受容してしまう心理がどのようなものかということです。

 この問題について考えはじめてつくづく思ったのですが、ほかのことについては理性的に考えられるのに、中絶論となると突然、没論理に陥ってしまうひとが少なくない。この問題について合理的に考えようとすることそのものが罪だ、と信じられているのではないかと思えてくるくらい。

 たぶんそれはこの社会でこどもと、そして母親の愛情というものが一種、神聖視されているからなのでしょう。このエントリではできるだけそういったセンチメンタリズムを避けて、冷静に考えていこうと思っています。感情的になったように見えたらつっこみをいれてください。よろしくおねがいします。