その5 パーソン論批判


 というわけで、パーソン論によると胎児はまだパーソンになっていないので堕胎はOK、これで中絶問題にも決着はついた――といえるかというと、実はそううまくはいきません。パーソン論に対してはさまざまな方向から批判が集まっているのです。

 パーソン論とは、乱暴に要約するなら、「脳力」によって人間を階層化しようとする思想です。健康で正常で理性的な人間=「パーソン」をピラミッドの頂点とし、幼児や知的障害者などはその下に置く。

 そして脳死患者や胎児など大脳機能が存在しないものは自我をもたないから「非パーソン」であり、なんら権利を主張することはできない存在だと考える。

 これによって妊娠中絶や脳死患者の治療停止などは倫理的に正当化されます。意識がないものは「ひと」ではないというわけです。ある意味では非常にわかりやすい理論だといえるでしょう。

 しかし、本当に「脳力」だけで人間を差別してよいものでしょうか。ここに疑問がのこります。

 たとえば、きのうまでまともに暮らしていた家族が、事故に遭って植物状態に陥ったとする。そのとき、われわれはそのひとが既に意識がないというだけの理由で、かれの権利は失われたと考えることができるでしょうか。

 むしろ、たとえ意識がないにしろ、その人物はまだ生きており、人間らしい扱いを受ける権利をもっていると考えるのではないでしょうか。パーソン論の問題点はここにあります。

 パーソン論は理性的思考が可能な意識だけがパーソンであると考えますが、人間存在とは単純に理性的意識とイコールで結べるような存在ではありません。

 おなかのなかで動く胎児の感覚、植物人間となった家族のてのひらのぬくもり、それらはたしかに理性的人間とのコミュニケーションとはいえませんが、しかしたしかにあたたかないのちの感触なのです。

 こういった体験の貴重さを思うとき、パーソン論の人間観は極度にやせ細ったものだといわざるをえません。パーソン論は脳にのみ注目し、「身体」と「関係性」のリアリティを無視しています。じっさいの人間存在とは、パーソン論の示す範囲よりもっと広いものなのです。

 あるいはまた、なにをもって理性的人間とみなすべきかという問題ものこされています。

 幼児や痴呆症老人の話すことばは、客観的にみて意味不明であっても、母親や介護者にだけは理解されうるということがありえます。そういった言語は医師による「客観的な」テストでは捉えきれないものです。

 したがって、あるひとがどのような能力をもっているのかを客観的に測定するということは理論上不可能ということになります。一歩まちがえばパーソン論は、たんに胎児や脳死患者といった「邪魔者」を都合よく始末するためのロジックに堕してしまうでしょう。

 よって、パーソン論によって中絶を正当化することはむずかしいということになります。はい、これでひとつ消えた。